茨城県を中心にした川瀬巴水作品の解説本(川瀬巴水とその時代を知る会編『川瀬巴水探索――無名なる風景の痕跡をさがす』)を読んで以来、巴水は福島県の浜通りにも足を運んでいるはず――という「確信」が生まれた。
いわき駅前の総合図書館から巴水の本を3冊借りて読んだ。清水久男『川瀬巴水作品集』(東洋美術、2013年)に、昭和29(1954)年に刷られた「勿来の夕」が載っている=写真。
巴水が茨城県・平潟を訪れてスケッチしたのは昭和19年。スケッチに基づいて版画を制作したのは終戦直後だった。「勿来の夕」はそれからおよそ10年後に制作されている。
スケッチに訪れた時期は不明だが、勿来と平潟は県境を挟んで隣り合っている。平潟を訪れたついでに勿来まで足を運んだとしてもおかしくない。その場合の目的地はむろん、勿来の関だろう。
「旅する版画家」らしく、平潟とは別に、後年、勿来の風景を目当てに訪れた、ということもあり得る。その場合は、「勿来の夕」だけでなく、関跡その他のスケッチも残しているのではないか――と、これは願望半分の空想。
「勿来の夕」は、農作業帰りの女性2人を前景に、5本の松の木越しに白波を、その奥に夕日を浴びてピンク色に染まる海と雲を描いている。画面の中央、海と空を区切るように延びる黄色と黄緑色は海食崖だろうか。
農作業帰りとわかるのは、夕方だから、だけではない。2人は共にもんぺ姿で草履をはき、竹製の籠を背負っている。年長の女性は姉さんかぶりをしている。母娘ないしは祖母と孫のようにも見える。
ポイントは画面の中央に伸びた黄色と黄緑色の線ではないだろうか。海食崖だとしたら、北茨城市の茨城県天心記念五浦美術館から見た勿来の海と同じ構図と言ってもいい。
同美術館からは手前に平潟の岬が見えた。つまり、平潟の岬の上にこうした農道があったとしたら、海と海食崖と空の連なりがぴったりする。
あくまでも裏付けのない勝手な場所探索だが……。そうであれば、道の北側(絵の上部)のふもとは勿来漁港、南側のふもとは平潟漁港で、「勿来の夕」という題も納得がいく。
ただ直観的には勿来の関公園がある山のふもと、関田あたりの旧道の風景という思いも捨てきれない。
さらにいえば、戦後、それこそ「新風景」として草野心平が雑誌「旅」に紹介して有名になった「背戸峨廊(セドガロ)」や夏井川渓谷の籠場の滝の作品はないものかと、願望は膨らむのだが、そこまでは無理のようだ。
「勿来の夕」の版画を扱ったことがある若い古書店主は、いわき関係ではほかのものは見ていないという。
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