「さて、きょうはどんな刺し身があるのかな」。日曜日の夕方、いつもの魚屋さんへ刺し身を買いに行く。
カツオの入荷が終わった今は、店主が勧めるマグロその他の盛り合わせを楽しむようにしている。
12月18日は「クジラがあります」という。これには目が点になった。わが生涯の“鯨食歴”が脳内をかけめぐる。
中学生まで阿武隈の山里で育った。半世紀以上前の昭和20~30年代には、家でときどき鯨肉の缶詰を食べた。
学校給食はどうだったか。街場で育ったカミサンは学校で鯨の竜田揚げを食べた記憶があるという。私はしかし、学校給食と鯨が結びつかない。普通に弁当を持って行った。給食といっても、出てきたのはみそ汁だけだったように記憶する。
家で食べた鯨肉の缶詰は、確か「大和煮」。醤油と砂糖などで濃く味付けされた煮物で、戦後の食糧難の時代から高度経済成長期に入るまで、豚肉や鶏肉の代用食だったとネットにある。
ときどき、夕食にカレーライスが出た。豚肉が少し入っていた。それが子どもたちにとっては特別のごちそうだった。
結婚してからは全く鯨に縁がなかった。歴史の一コマとして、江戸時代前期、磐城平藩を治めた内藤家から、近年、いわき市に寄贈された「磐城七浜捕鯨絵巻」(市有形文化財)を見たことがあるくらいだ。
小野一雄・佐藤孝徳著『小名浜浄光院誌』(2021年)の口絵に同絵巻の解説が載る。それによると、同絵巻は久之浜から小名浜までの海岸線で行われる捕鯨の様子を、時系列で描いた長さ10メートルに及ぶ長大なものだ。
解説では小名浜西町から三崎までの集落や川・橋・高札場・人の労働や往来などを詳細に伝える。渚では鯨の解体が行われている。
絵巻が内藤家から市に寄贈されたのは共著者の一人、故佐藤孝徳さんの働きかけが大きかった。
この絵巻が市の所有となり、公開されたおかげで、江戸時代には鯨を追い、鯨と格闘する漁民がいたことを知ることができた。
今年(2022年)はその内藤家が入封して400年の節目の年ということで、いわき市勿来文学歴史館では夏から秋にかけて、企画展「徹底解説!磐城七浜捕鯨絵巻」が開かれた。
さて、刺し身だ。今回はマグロと鯨のほかに、タチウオが少し加わった=写真。タチウオはサービスだったかもしれない。
タチウオは西の魚だという。海水温が上昇しているため、今では三陸沖でも獲れるという。「だから、サンマが下りて(南下して)来ないわけだ」「そういうことです」
その食感は――。タチウオは白身。やわらかい。鯨は? 小袋に入っているタレを分けてもらった。たぶん塩とごま油におろした生姜が入っている。
赤黒い身、というより、ほ乳類だから肉か。見た目も、かみごたえも、昔食べた馬刺しに似ていた。
鯨の刺し身は、今のいわきでは食文化というレベルでは特異な食材だ。それでも、わが味蕾は大和煮を覚えていたようだが、カミサンと義弟はとうとう箸を出さなかった。
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