2022年12月2日金曜日

牛小川の石碑

                               
 平地の平・平窪から夏井川渓谷の小川町・牛小川まで、自転車で駆け上がって行く元中学校長先生の話を前に書いた。

 11月13日の日曜日、渓谷にある隠居の畑に立っていると、そばの道路から旧知の元校長先生があいさつした。

 私が現役のころ、勤めていたいわき民報に「アカヤシオの谷から」というタイトルで、渓谷の自然と人間の話を連載した。

 36回目(2000年3月7日付)に、陰陽道にからむ石碑の話を紹介した=写真上。その石碑を、元校長先生が今年(2022年)10月、やはり旧知の地元のKさんに案内されて見た。

 その後、石碑の拓本を取り、図書館や神社、寺などを回って尋ねたが、「初めて見た」という答えが続いた。

そうこうしているうちに、図書館のレファレンスサービス担当者から、私がいわき民報に書いた連載コラムを教えられた。それからさらに調べを進めて冊子にまとめた。

どんな石碑かは、冊子の口絵=写真下=と、私の「アカヤシオの谷から」の文章を組み合わせて説明する。

石碑は先端がとがった自然石(高さ約2メートル、中央部幅約75センチ)で、夏井川に注ぐ支流・中川の橋のたもとにある。

そばをJR磐越東線と県道小野四倉線が走る。石碑の前の道路は広域基幹林道上高部線、地元の人がいう「スーパー林道」だ。

元校長先生の調べによると、石碑は、前は磐越東線の計画地にあった。線路を敷設する際、そばの民地に移された。

私が初めて石碑を見たとき、近くの小さな畑におばさんがいた。おばさんから聞いた話はこうだった。

中川に橋を架けるとき、近くに住む「大ばっぱさん」が、川に沈んでいる石の夢を見た。それをみんなで引き揚げた。大ばっぱさんが生きていたころだから、明治の話だという。11月のお祭りのとき、おばさんが供物をあげるということだった。

石碑の中央には「木火土金水」、その両側にも字が彫られている。私がわかったのは大きな5文字だけだった。

陰陽五行説と関係があるのではないか。私もそこまでは推測できたが、なぜそれが牛小川にあるのかはわからなかった。元校長先生は、そこからさらに調べを進めた。

向かって左側の石碑の文字は、干支(えと)の「乙未」と「八朔」(8月1日)を意味するもの。さらに、その下にあるのは「正命」。大病や大けが、飢えなどで死ぬのではなく、天寿を全うすることを願ったものだろうという。

向かって右側の方は、土中のも含めて9~10文字あるが、今のところ解読が困難だとか。

「木火土金水」を彫った石碑は、いわき市内ではほかに存在が確認できない。国内では、なんと沖縄市にあるだけだ。こちらは琉球王朝時代の明暦3(1657)年、「鳩目銭」の鋳造を記念して建碑された、とネットにある。

元校長先生は短時間で冊子をまとめ、Kさん宅へ届ける途中、私を見つけて経緯を明かし、あとでKさんからもらってチェックしてくれということだった。さっと読んだ限りでは、アカを入れるところは見当たらない。とにかく不思議な石碑ではある。

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