大根は会津産。震災翌年の2012年夏、豊間で津波被害に遭い、内陸部で暮らしながら家庭菜園に精を出している知人(女性)から、種の入ったさやをもらった。
原発事故が起きて、昔野菜の「三春ネギ」以外に栽培を続ける気持ちが萎(な)えていたころだ。
月遅れ盆の上がりに種をまき、冬に掘り起こして「おろし」にして辛みを楽しんだ。何株か残して越冬させたら、花が咲いて実が生(な)った。それを2~3年栽培して分かったことがある。
春に耕すと根に圧力がかからず、細いまま地中深く伸びる。たまたま不耕起のところから生え出た「ふっつぇ大根」は、土が硬くて根が下には行けずに横に膨らんだのか、ずんぐりした立派な辛み大根になった。
それを見て以来、種の眠るさやも回収するが、不耕起・ふっつぇで辛み大根を収穫するようにしている。
辛み大根の若葉を見ると、秋になったことを実感する。9月。隠居では毎年のように、ミニ同級会を開いてきた。コロナ禍以来、それがストップしている。
先日、同級生からメールが届いた。ミニ同級会、別名「生存確認会」は来年かな――。そういう流れで再会し、無事を確かめ合いたいものだ。
そもそもミニ同級会は、企業の「戦士」であることをわきに置いて(忘れて)、10代の自分に戻ってストレスを解放する場のようなものだった。言いたいことを言い合い、笑い合って、最後は雑魚寝をして朝を迎える。
ある本を読んでいたら、ミニ同級会の趣旨と重なるような古代ギリシャの詩人アリストパネスの詩に出合った。部分引用なので、タイトルも、何に出てくるのかも分からない。
その一部。「ああ、なんという歓びか/鉄かぶとを脱ぎ捨てることは……/戦(いくさ)は好むところではないと告白しよう。」
そのあとに続く詩句。「わたしが好むのは、火のそばにすわり/夏のうちに割って乾かしておいた、朽ちた丸太の薪(たきぎ)を燃やし/ヒヨコ豆をいりながら/仲間と酒をくみかわすこと。/これにまさる幸いはない」
隠居の庭では焚き火をしない。茶の間の座卓を囲んで、ヒヨコ豆の代わりにカツオの刺し身をつついて、仲間と酒をくみかわす――。
アリストパネスの詩が引用されていた本は、第二次世界大戦の戦場になり、戦士として凄惨な体験をした作家の、自然と人間の物語だ。
そう、どこかの国でも兵士が鉄かぶとを脱いで、仲間と酒をくみかわすときが早くくることを、切に祈っている。
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