いわき地域学會の第369回市民講座が土曜日(9月17日)の午後、いわき市文化センター大講義室で開かれた=写真。
会員の中山雅弘さん(前いわき市勿来関文学歴史館長)が「松井秀簡(しゅうかん)~非戦を貫いた泉藩士~」と題して話した。
このテーマの講座は、実は昨年度(2021年度)の前半に予定されていた。コロナ禍で延期され、その後また同じ理由で会場が使えず、いったんは中止になった。
今年度の市民講座の人選を進めるなかで、中山さんに連絡をとった。彼は違うテーマを考えていたが、私は松井秀簡の話をリクエストした。
市民講座は会員の研究成果を発表する場でもある。が、泉藩、あるいは同藩士がテーマになることはまずない。
常連のほかに、平在住の知人(泉藩内の錦出身で、先祖は泉藩士)や、秀簡の直系の子孫など、泉在住者が何人か受講した。
松井秀簡(1826~68年)を簡単に説明するのは難しい。中山さんが受講者に配った資料と講話から浮かび上がってきたのは、少年のころから頭脳明晰だったということだ。そして幕末の動乱期、藩論が二分する中で、秀簡は非戦を唱えて自刃する。その生と死を、もっと深く彼の内面とからめて知りたいと思った。
中山さんによれば、秀簡は藩から派遣されて磐城平藩の学者、神林復所(1795~1880年)のもとで学んだ。
さらに、三春藩に召し抱えられた最上(さいじょう)流和算家、佐久間庸軒(1819~96年)のもとで、町見術(測量して田畑の面積を出す)や水盛術(水準を出す)などを修得した。
秀簡は三男坊だったが、殿様に同じ松井の「別家」として取り立てられ、小頭、徒士、徒士小頭を経て、29歳で代官(新百姓取立掛)になった。
つまり、新田開発の担当者というわけだが、これには和算の知識(年貢取り立て、田畑の面積の計算など)を買われてのことだったようだ。新田開発に伴い、越後・蒲原郡から家族ごと農民をスカウトする事業にも取り組んだ。
そして、慶応4(1868)年、41歳で郡奉行になる。奥羽越列藩同盟と新政府軍の戦いが始まるなかで、非戦論者の秀簡は6月22日、自刃する。
背景にはなにがあったのか。中山さんは「秀簡は、国学は学んでいない。水戸の会沢正志斎に兵学を学んだ。会沢は開国論者だった」と前置きして、世界情勢にも通じていた開明的な人物で、領民の苦労もわかっていた、幕府側の遊撃隊・純義隊が領民から軍資金を調達しようとしたことへの抗議でもあったのではないか、とした。
私は特に、数え16歳で詠んだ漢詩「貧士」(七言律詩)に引かれた。現代でいえば、中学3年生の作品だ。その中の読み下し2行。貧しい男の心意気をうたっている。「心の玉は値(あたい)千金/財布の中に一文も無し」。言い切るところがすがすがしい。
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