2022年10月17日月曜日

夕焼けと「もってのほか」

                       

 晩酌から就眠までの時間が早くなった。6時近くなって始めた晩酌が、今は5時になると自分で飲む準備を始める。10時過ぎの就眠が9時、ときにはその前になる。当然、目が覚めるのも早い。

 このごろは朝4時前後に起きてブログをアップしたあと、また床に就く。再起床するのは6時過ぎ。

秋分の日から3週間余りたつ。4時といってもまだ夜の続きだ。そのまま起きて何かするには暗すぎる。

 二度寝してうっすら明るくなったころに起きる。意外や意外、それで午前中はわりとすっきりしている。睡眠の質はともかく、量はたぶんカバーできているのかもしれない。

子どものときと、老いを迎えた今と、同じ早寝早起きでも夜明けと日暮れの違いがある。その日暮れと晩酌だが――。

10代後半でいわきから東京へ飛び出し、新聞販売店に住み込んだ。夕刊を配りながら、何度も圧倒されるような夕焼けを目撃した。

 やがてJターンして新聞記者になった。結婚して子どもができると、日曜日にはよく子どもたちを連れて近くの田んぼ道を散歩した。西空が焼けるように赤くなるときがある。「トーチャン、空が大火事だ」。こんな日の夕焼けも記憶に残った。

 年金生活者になった今は、もう夕焼けの時間には晩酌を始めている。夕空の美しさを見ることが少なくなった。

 で、ときどきカミサンが叫ぶ。「見てみて、すごい夕焼け」。土曜日(10月15日)も「雲が銀色になっている」と、茶の間に声をかけてきた。

 銀色? 道路に出ると、すでに西の空が燃え出している。上空はまだ青い。その下でひつじ雲が白く展開し、さらにその下にある雲が灰色になっている=写真上1。

これが、カミサンのいう銀色か。灰色に見えるのはたぶん、夕日を浴びた雲の裏側、つまり影の色ではないだろうか。

 夕焼け・朝焼けを見ると、自然がつくりだす荘厳さにいつも心が打たれる。人間が求める美の根源がここにある、そんな気持ちが膨らむ。

 アートは自然を模写することから始まる――若いときからこんな思いにとらわれているのは、夕焼けに圧倒されてきたためらしい。

 同時に、若いときには夕焼けがすごければすごいほど、わが身はあしたどうなるのか、という不安に支配されたものだった。

土曜日は、いいタイミングでカミサンに電話がかかってきた。食用菊の「もってのほか」があるという。

 「もってのほか」は大好物だ。少し離れたところに住むカミサンの知り合いの家までアッシー君を務める。夕日が沈むころには「もってのほか」の酢の物=写真上2=をさかなに晩酌を始めた。

 世界が焼き尽くされないように、日暮れが世界の終わりにならないように……。夕焼けからの連想ではないが、今、この瞬間、そんなことを祈るように思っている人間がたくさんいそうな気がした。

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