このごろよく頭に浮かぶ言葉がある。「暴力的な緑の繁殖」。わが家の庭と、夏井川渓谷の隠居の庭に立つだけで、雑草に支配されている感覚に襲われる。
隠居の庭は特に広い。しかも、上下二段になっている。前は年に2回、知り合いの造園業者に頼んで草を刈った。今は後輩が軽トラに草刈り機を積んで来てくれる。
おかげで夫婦がねじり鎌を持って草を引くのは、自分が手がける菜園や隠居の周辺だけで済んでいる。
毎日、少しずつ――が、庭の草引きの基本だが、これを怠っているから、わが家の庭でも雑草がはびこる。ましてや、日曜日しか草が引けない隠居の庭は、行くたびに緑が繁殖している。
哲学者の内山節さんは、自然と人間の関係を、自然と自然、自然と人間、人間と人間の三つの交通としてとらえる。自然と人間の交通を通じて形成されるムラの景観を例にとれば、こういうことだ。
春が来れば田を起こし、土手と畔の草を刈り、水路を修復して水を通す。やがて、そこら一帯が青田に変わる。草を刈るのは病害虫対策と、田んぼに光を入れ、風通しをよくするためだ。
夏が過ぎ、秋になれば稲穂が垂れる。刈り取られた稲は、はせぎに掛けられる。あるいは、わらぼっちとなって田んぼに立ち並ぶ。
日々、人間は自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。ときには大きなしっぺ返しを受けるとしても、自然をなだめ,畏れ敬って、折り合いをつける。
その折り合いのつけ方が景観となってあらわれる。農村景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持されるものなのだ。
その意味では、太陽と雨と風を上手に利用した農の営みは、庭の草むしりが原点になる。それが畑の、田のあぜの草刈りと連坦して、落ち着いたムラの景観を醸し出す。
人間が営々と築き、守ってきた美しいムラの景観が、人の手が加わらなくなったらどうなるか。たちまち壊れ、荒れ始める。生活と生産の基盤を瞬時に奪った原発事故がそれを証明する。戦争も同じだ。
わが家と隠居の間、平~小川の夏井川流域を行き来していて、通るたびにすっきりした感じを受ける水田がある。
小川町塩田。段々状になっている水田の土手がいつもきれいに刈り上げられた短髪のようになっている=写真。
小川で集まりがあり、地元の重鎮にその話をすると、米づくりに熱心な農家が多いということだった。なるほど。
隠居へ行くのに、平地内では幹線道路ではなく、田んぼ道を通る。黄金色の中にヒエなどの草が混じっている水田がある。その地区の、その水田の1枚1枚に、自然と人間の交通が反映される。いつでも、どこでも、緑の繁殖をどう抑えているか、に目がいく。
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