仙台在住の作家佐伯一麦さんの随筆集『Nさんの机で』(田畑書店、2022年)を読んでいたら、こんな文章に出合った。
「ペンだこの名残はいくぶんあるものの、ワープロやパソコンで執筆するようになり、めっきり小さくなってしまった。物書きであるしるしがうしなわれてしまったような思いを抱きながら、せめて原稿の下書きやメモ、日録は手書きで、と鉛筆を握る」
作家に限らない。ペンだこが盛り上がっていた新聞記者も同じだろう。パソコンのキーボードをたたくようになってから、ペンだこがしぼんでしまった。
同時に、「外部の脳」(電脳)に頼りすぎて、「内部の脳」がさっぱり機能しなくなってきた。難しい漢字をどんどん忘れていく。
それに歯止めをかけないと――。ペンだこのためではなく、漢字を忘れないために、ブログの下書きや日記は手書きを続ける=写真。前にも同じ趣旨の文章を書いている。それを抜粋・再掲する。
――アナログ人間である。その人間がデジタル社会のなかで何を心に留めているかというと、メモは「手書き」で通すこと、これだけ。
1990年代半ばには、地域新聞社も原稿製作が「手書き」から「パソコン入力」に切り替わった。そのとき、新聞記者は「新聞打者」になった。
書くということは、自分の脳内に文字を浮かび上がらせ、腕から手、指へと伝え、鉛筆あるいはボールペンを使ってそれを紙に記す、きわめて肉体的な行為だ。その行為の繰り返し、経験が体に蓄積されて次に生かされる、と私は思っている。
記事の書き方がアナログからデジタルに変わり、新聞記者が新聞打者になって何が起きたか。
文章を書き直すのに、原稿用紙をクシャクシャにしてくずかごにポイッ、がなくなった。原稿の修正が楽になった。過去のデータもすぐ引き出せる。
半面、生身の脳はなにか大切なものを失ったような気がしてならない。たとえば「薔薇」の字、これが書けなくなった。
キーボードで入力すると、パソコン画面に候補の漢字が現れる。記者は(一般の人もそうだが)「薔薇」の文字を選択するだけでよくなった。
「書く」ことをやめて、外部に映る漢字を「選ぶ」だけになった結果、漢字がどんどん自分の脳からこぼれ落ちていく。
私は、パソコンを「外部の脳」、自分の脳を「内部の脳」と区別して考える。外部の脳に文章の処理を任せるようになってから、内部の脳はすっかり書くことから遠ざかった。
人間の脳は、使わなければ退化する、パソコンやスマホが普通になった今、人間の脳はこれから小さくなっていくのではないか、といった危惧を抱かざるを得ない。それを避けるために、意識して実践しているのがメモ(日録)の手書きだ。
書くことは肉体的な行為だ。書く習慣が薄れると考える力も衰える。アナログ人間だからこそわかるデジタル文化の落とし穴といってもよい――。
「内部の脳」を活性化するためにも手書きを勧めたい。用紙は新聞に折り込まれる「お悔み情報」、そしてパチンコ店のチラシだ。片面が真っ白なので、メモ用紙が途切れることはない。
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