きのう(11月16日)の続き――。11月5日にいわき市立草野心平記念文学館で吉野せい賞の表彰式が行われたあと、作家の佐伯一麦さん(仙台)が「厄災と文学」と題して記念講演をした。
作家は、ある意味では読書家でもある。さまざまな作品を読み、学び、自分の血肉としながら、独自の表現を模索する。佐伯さんの講演から、まずそのことを感じた。
演題を最初、私は「災厄」と読み違えていた。一般的には「災厄」だが、あえて「厄災」としたところに佐伯さんの思いが込められている。
災厄は地震や津波、水害などのイメージが強い。しかし、人為的な災害もある。災いを幅広くとらえたい、ということなのだろう。
東日本大震災の直後は、現地入りした記者も作家も惨状に言葉を失った。現地の人間はそれ以上に、被災前の様子と比較して心が真空状態に入ってしまった。
佐伯さんは「自分の実感を裏切らない」ことを、文学の基本においている。それを踏まえて、「日常とは時間を取り戻すこと」「言葉とは態度のこと」としつつ、ブレヒトやシェイクスピア、川端康成などの作品を紹介した。
なかでもよく知られているのが「ロミオとジュリエット」だろう。結ばれない恋を実らせるために、ジュリエットはロミオと駆け落ちしようとする。
彼女は修道士とはかって仮死状態になる薬を飲む。それが芝居であることを知らせる手紙をロミオに届けようとするのだが、使者が、たまたまペストが発生した地域で足止めを食らう。
その結果、ロミオは墓所に運ばれたジュリエットのそばで服毒自殺をし、それを知ったジュリエットもロミオの短剣で自分の命を絶つ。
川端康成の場合は、「魔界」をテーマにした、“元祖ストーカー小説”ともいうべき「みづうみ」を取り上げた。川端は原民喜の案内で原爆後の広島を訪ねている。「原爆小説」を書きたかったのではないか、と佐伯さんは推察した。
最後に、佐伯さんは吉野せいの「梨花」を取り上げた。「厄災」をバネにして「文学」まで昇華させる――その例に加えた。
これからは、佐伯さんの作品『川筋物語』についての、私の個人的な感慨。同書は、仙台市を流れる広瀬川をさかのぼり、最後は河口へ戻って来るルポ風物語だ。
〈定義(じょうげ)〉の章に「門前町の突き当たりの寺院が浄土宗の極楽山西方寺。正式名称よりも『定義さん』『定義如来』などの通称で親しまれている」とある。
東北地方の浄土宗の多くは、いわき市平山崎にある專称寺=写真(2019年4月撮影)=を本山とする元浄土宗名越派の末寺とみていい。佐藤孝徳著『專称寺史』に当たると、宮城県の末寺に極楽山西方寺があった。
表彰式の事務局である市の課長にいうと、「ぜひ直接話してください」。それに押されて、講演会終了後、佐伯さんに名刺を渡して「定義さん」の話をした。
佐伯さんは翌日、国宝白水阿弥陀堂を見学することになっていた。「白水阿弥陀堂は世界遺産レベル。白水阿弥陀堂もいいが、専称寺もいいですよ」。「定義さん」と専称寺がつながっていることをわかってもらえたらうれしい。
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