川端康成(1899~1972年)がノーベル文学賞を受賞したのは昭和43(1968)。私が学校をやめて東京へ飛び出したのは、その1年前だった。新聞でニュースを知ったとき、世界的にはローカルな日本文学が評価されたことに不思議な思いがした。
「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた」のが授賞理由だった(ウィキペディア)
川端の『雪国』や『伊豆の踊子』はもちろん読んでいた。国内的には「文豪」として評価されていることも承知していた。
20歳になったばかりの「文学青年」的な興味からいうと、これで三島由紀夫の芽はなくなった、反射的にそう思ったことを覚えている。
日本文学を世界文学の土俵で考えるようになったのは、このときが初めてではなかっただろうか。
私自身、10代後半で現代フランス文学、いわゆるアンチ・ロマンとかヌーヴォー・ロマンといわれる文芸思潮と作品に引かれ、フランス文学を学ぼうかと思ったほどだ。
要するに、明治維新に始まる「脱亜入欧」(戦後はアメリカ文化の流入)の流れのなかで、外国文学に影響を受けてきた、とはいえる。
それから半世紀――。今や日本文学は、村上春樹や多和田葉子、小川洋子をはじめ、さまざまな作家の作品が翻訳されて、世界のあちこちで読まれるようになった。
堀邦維(くにしげ)『海を渡った日本文学――「蟹工船」から「雪国」まで』(書肆侃侃房、2023年)=写真=は、海外で日本文学が受容されていく歴史を、翻訳者を介して論じる。
川端がノーベル文学賞に決まったとき、半分は翻訳者のエドワード・サイデンステッカー(1921~2007年)のものだ、と述べたそうだ。翻訳者がいなければ川端の作品は世界へと開かれた文学にならなかった。
その意味では、サイデンステッカーと同じ道を歩んだドナルド・キーン(1922~2019年)の存在も大きい。
『海を渡った日本文学』によると、1925年、アーサー・ウェーリー(イギリスの東洋学者)が英訳した『源氏物語』の最初の巻が出版される。サイデンステッカーとキーンはそれぞれ、この英訳『源氏物語』から日本文学研究の道に入った。さらに2人とも、太平洋戦争を機に日本語を本格的に学ぶようになる。
戦後もサイデンステッカーは東大で、キーンは京大で日本文学を学んだ。この留学時代に2人は親交を深めた。
日本文化と文学への深い理解と愛情から、サイデンステッカーは晩年、日本に移り住んだ。キーンもまた、東日本大震災を機に日本国籍を取得し、永住した。
多和田葉子さんの場合は、原発事故を起こした1Fの取材で福島に入り、知り合いが案内した関係で、たまたま食事会に加わったことがある。生身の作家を前にしたことで、彼女の作品がより身近なものになった。
彼女が海外で評価されていることもあって、日本文学が世界に開かれる、あるいは他国の文学が日本に届くためには、翻訳が、翻訳者がいかに重要かを再認識した。サイデンステッカーとキーンは、やはり飛び抜けた存在だった。
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