カミサンの実家から小糠(こぬか)が届いた。実家は米屋の本店、わが家は支店だ。本店には精米設備がある。毎日、小糠が出る。
糠漬けを再開するには新しい小糠が要る。早すぎる春の訪れに、4月に入ったら糠漬けを再開しないと――。そう思ったものの、ついずるずると先延ばしにしてきた。
もう4月下旬、大型連休が視野に入ってくるようになった。こうなると待ったなしだ。なにがなんでも糠床の眠りを覚まさないといけない。
思いはカミサンも同じだったようだ。というより、しびれを切らしたカミサンが「実力行使」に出た? いや、違う。ちょっと前に小糠が必要な話をした。催促はしなかった。それを思い出して、実家に電話をしたのだろう。
いよいよ糠床を開封するぞ、と覚悟を決めたとたん、カミサンの知り合いから電話がかかってきた。「採りたてのタケノコがある」という。
この知り合いからはたびたびお福分けの電話がかかってくる。そのつどアッシー君を務める。車で5分ほどのところに住んでいる。すぐもらいに行った。
タケノコはむろん、今年(2023年)初めてだ。袋に8本入っていた=写真。まだはしりらしく、思ったよりは小さく、ほっそりしていた。
タケノコの時期を迎えると、決まって思い出す光景がある。子どもが小さいころ、裏山に竹林を抱える友人の家の庭で、毎年、「タケノコパーティー」を開いた。
早い時間から数家族が集まり、庭でたき火をしたり、遊びまわったりした。大人はたき火を囲んで、切ってきた青竹に酒を入れて飲み、カツオの刺し身をつつきながら、日が暮れるまで談笑した。
今年の初タケノコは形状からしてやわらかそうだった。カミサンが皮をむき、小糠を加えてゆでたのが、さっそく晩酌のおかずになって出てきた。見立てたとおりにやわらかい。とにかくやわらかい。若いのでえぐみもない。
こうなったら、次は糠床だ。小糠を届けてもらったそもそもの理由がこれだから。翌朝、冬眠していた糠床を引っ張り出し、食塩のふとんをおたまではぎとったあと、新しい小糠を加えてかき回し、捨て漬けのキャベツの葉を入れた。いよいよこれから毎朝、起きると糠床をかき回す作業が加わる。
ついでに、これまた始末せずに放置していた白菜漬けの甕を洗い、晩秋まで台所の隅にしまっておくことにした。
タケノコは、皮が付いたままではあげにくい。小糠も添えないといけない。「ゆでてあるので、あとは調理するだけ」。そこまでやって電話をかけると、「もらう、もらう」となる。
確かに、若い世代と違って、タケノコを食べてきたお年寄りは下ごしらえに時間がかかることを知っている。それでつい、ゆでてえぐみもない「半食品」歓迎、ということになるのだろう。なにしろ、すぐ煮物やみそ汁の具になるのだから。私らも、もらう側だったら、その方がいい。
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