2023年4月11日火曜日

「シダレがきれいですね」

                     
 「春は馬車に乗って」は作家横光利一の小説のタイトルだが、今年(2023年)は馬車どころか、列車に乗って駆け抜けた感がある。

 まだ4月初旬の9日だというのに、夏井川渓谷の県道沿いは新緑の装いに変わった(ただし、この日は風が冷たかった)。

 渓谷の隠居の対岸に自生するアカヤシオ(岩ツツジ)はあらかた花を散らし、ヤマザクラも赤みを帯びた葉を広げている。そのなかで、隠居の庭にある対のシダレザクラが満開になった=写真。

 なぜ対かというと――。知人から苗木2本をもらったとき、バラバラではなく、幹にハンモックをかけられるようにと、少し距離を置いて植えたのだった。それが20年ちょっと前。対のシダレは順調に育って、今では見上げるほどに大きくなった。

花の順序からいうと、まず対岸のアカヤシオが咲き、ヤマザクラが谷から尾根まで淡いピンク色を点描するころ、県道沿いの隠居のシダレザクラがやはり鮮やかなピンク色に染まる。

アカヤシオの花が目的で渓谷を訪ねたのに、あらかた散ったあとだった、という行楽客が毎年いる。県道を歩きながら、わが隠居のシダレを目に留め、カメラを向ける。そばで土いじりをしていると、よく声がかかる。「シダレがきれいですね」

この時期は庭に入り込む行楽客も後を絶たない。あいさつされれば「どうぞ、どうぞ」となるのだが、だいたいは黙ったままだ。

ある年には、押し花を教えているという女性とカミサンが満開のシダレザクラの下で話をしていた。同じ街の米屋が実家と知って、話がはずんだ。

「あのう、ここは何をやっているところですか」。ためらいがちに声をかけてきたアマチュアカメラマンもいる。「そば屋です」といいたいところだが、「ただの民家です、どうぞ、どうぞ」。そこからしばらくシダレザクラの話をした。

渓谷の住人で造園の仕事をしているKさんは、隠居のシダレは対になっているので競って花を咲かせるのだという。植物自身の「生きる力」が競り合うことでプラスに作用するということなのだろう。それはともかく、私ら夫婦も対のシダレが満開になるとつい見ほれてしまう。

その一方で、私は満開の花の下に入り、地面を丹念に見て回る。春のキノコのアミガサタケが発生するからだ。ところが、この2~3年は出現が思うほどではない。花は満開なのに……。9日も空振りだった。

今年(2023年)、シダレザクラの花を一番喜んだのは、その下で眠るネコだろう。下の息子が飼っていた「裕次郎」というネコが1月下旬に死んだ。25年も生きたというから、人間の年齢でいえば100歳を超えている。

シダレザクラの枝の外縁部に、息子が穴を掘って「裕次郎」を葬った。満開の花が今、優しく墓を包んでいる。これ以上の供養はない、そんな思いもよぎる。

0 件のコメント: