2023年4月2日日曜日

「お姉さん」の後悔

                     
 私の2人の祖母は70代前半で亡くなった。そのころ、10代半ばだった。祖母のように70歳を超えるまで生きるのは大変だな――そんな思いがよぎったことを覚えている。

 ネットで昭和30年代の「平均寿命」を確かめる。中学3年生だった昭和38(1963)年は、男性がおよそ67歳、女性が同じく72歳だった。

 その後、生と死の意味もわからないまま文学にのめり込み、「石川啄木は26歳で死んだ」「中原中也は30歳だった」などと、ただただ夭折(ようせつ)した歌人や詩人に傾倒していった。

 やがて20代になり、30代を過ぎるころになると、田村隆一の短詩「悪い比喩」が胸にしみた。戦争で死んだ仲間は、生きて帰った青年たちが夢見る立原道造や中也の「夭折の権利」を笑っている――。宮沢賢治の没年(36歳)を過ぎたことも加わって、「夭折の権利」が失われたことを自覚した。

 こうなったら生き続けるしかない、そんな思いで年を重ねた。10代では想像もつかなかった60代、70代の坂の上に立ってみると、そんなによぼよぼでも、おいぼれでもない、まだちょっとがんばれるかな、といった気持ちもある。

 しかし、体力的にはやはり人生の日暮れにいることを感じることが多くなった。そんななかで、夫を看取って何年かたつ「お姉さん」の話を聞いた。

 いつも夫婦でお邪魔する。私よりカミサンと話す方が多い。時折、私も話に巻き込まれる。もう80代半ばだが、言葉には力がある。「野党精神」も健在だ。衣食住の細かいところまで目が行き届き、アートにも理解がある。

最近出かけたのは冬の終わりだった。そんな時期だったので、おしゃべりを楽しみながらパンジーの花=写真=を思い浮かべていた。

 「お姉さん」からはいつもハードな激励を受ける。いつだったか、こういわれた。「あなた、妻より早く死ぬのよ」。妻に先立たれた知人のその後を見ての結論だったようだ。

 そして、今回は……。入院していた夫が亡くなる直前、「あと20~30分くらいだな」と「お姉さん」に伝えた。「そのとき、『長い間ありがとう』と言えなかった。それを悔んでいる」という。返す言葉もなく、ただただ厳粛な気持ちになった。

 老いるとはこういうことなのだ。「死んだら死んだで生きてゆくのだ」と、カエルのゲリゲに託した草野心平の境地にはなれなくても、人は死を片手に握って生きている。

 「お姉さん」の後悔から学ぶことはいろいろある。ふだんから「ありがとう」と言っているなら、その延長で人生を終えるときにも「ありがとう」が言えるだろう。

それができるかどうかはともかく、ここはしっかり「お姉さん」の言葉を胸に刻んでおこうと思う。

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