土曜日(6月10日)は早朝、神谷公民館で草刈り作業をした。コロナ禍の前は、利用サークルの人々も参加して、けっこうにぎやかだった。今回は館長と地区区長協議会(8人)のメンバーだけ。つまり、10人もいない。
それが終わると、区長たちは近くの平六小裏山=写真=にある「忠魂碑」と「殉国碑」、そしてふもとの立鉾鹿島神社の境内にある「為戊辰役各藩戦病歿者追福碑」の草刈りをし、併せて慰霊祭を行った。
公民館はともかく、区長協議会が忠魂碑の草刈りと慰霊祭を行うようになったいきさつは、これはもう高齢社会と無縁ではない。
遺族会が解散することになり、ほかに受け皿がないことから、コミュニティを束ねる区長協議会が肩代わりすることになった。
昭和26(1951)年に発行された神谷市郎著『神谷郷土史』によると、忠魂碑は大正9(1920)年10月、小学校の裏山公園に建立された。138柱の殉国の霊が眠り、毎年4月に慰霊祭を催す、とある。
一方で、同書にはこんな記述もある。「本村では、日清・日露・東亜戦争を合せると、149柱の犠牲者を出している。(但し本籍地含んでの数字)」
少なくとも、大正9年建立の忠魂碑には、アジア・太平洋戦争の犠牲者は含まれない。忠魂碑のそばに立つ殉国碑を含めての138柱ということになるのだろう。
小学校の裏山公園は東西にのびる丘の一角にある。周りは常緑・落葉樹が生い茂り、あまり日光が差し込まない。おかげで雑草は碑の前に少しあるだけだ。
短時間で草刈りが終わると、近くから調達した細い竹を忠魂・殉国碑の周りに立て、しめ縄を張り、紙垂(しで)をつるす。お神酒(ワンカップ)を上げて、二礼二拝一礼をする。これが慰霊祭の中身だ。ふだんは忘れている神谷地区の戦没者に思いをはせるひとときでもある。
戊辰戦争の記念碑は二つある。一つは、平六小の校庭にある「奉公碑」だ。『神谷郷土史』によると、大正6(1917)年に建立された。戊辰戦争で幕府軍と戦って斃れた人々の霊をまつる。つまり、自藩の慰霊碑だろう。
もう一つの追福碑は、昭和7(1932)年に建立された。やはり戊辰戦争の犠牲者をまつるが、こちらには「各藩」が入っている。
神谷村は笠間藩の分領だった。のちに今の平六小に陣屋が置かれた。本藩が新政府軍に加わったため、戊辰戦争では隣の磐城平藩をはじめ奥羽越列藩同盟を相手に、孤立無援の戦いを強いられた。
結果、周りは“負け組”、神谷は“勝ち組”に入った。「各藩」が入っているのは、勝ち負けなく弔おうという、一種の政治的判断からではなかったろうか。
この清掃・慰霊祭ではやはり、自分が今住んでいる土地の歴史を、戦争を通して振り替えざるを得ない。
と同時に、裏山公園へは何段もの石段を登っていく。年々、たどりつくまでに時間がかかるようになった。区長自身が高齢化の先端を歩んでいる。その矛盾を考える日でもある。
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