「百姓バッパ」を自称した作家吉野せい(1899~1977年)の短編集『洟をたらした神』(中公文庫、2015年再版)は座右の1冊だ。
単行本は昭和49(1974)年、彌生書房から出版された。翌年、大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞する。
田村俊子賞受賞の知らせが入ったとき、いわき市好間町・菊竹山の自宅を訪ねて取材した。そのとき、せいは75歳、私は26歳だった。
『洟をたらした神』は、単行本が出て以来、いつも身近にあった。近年、作品の「注釈」づくりをライフワークに――と思い定めてからは、文庫本を手元に置いている。これには書き込みが絶えない。
最後に収録されている「私は百姓女」の前の小品「老いて」=写真=は、何行かに傍線が引かれただけだ。注釈を誘うような語彙がなかったことが大きい。
最近、その「老いて」を読み返して、「わかる、やっとせいに追いついたか」そんな感慨がわいて、われながら驚いた。
「老いて」の末尾に「昭和四十八年秋のこと」とある。同年秋に抱いた老いの自覚をつづった、ということだろう。
もともと、せいは文学少女だった。大正元(1912)年秋、磐城平に赴任した牧師で詩人の山村暮鳥の知遇を得た。その後、暮鳥のいわきの盟友である開拓農民で詩人の三野混沌(本名・吉野義也)と結婚し、仕事と子育てに追われた。
混沌の死後、ほぼ半世紀ぶりにペンを執り、草野心平の勧めで『暮鳥と混沌』を書き、『洟をたらした神』を刊行した。
『洟をたらした神』に収められた作品の執筆年は、昭和46年(72歳)=1編、同47年(73歳)=5編、同48年(74歳)=4編、同49年(75歳)=6編だ。世間は老いてなお旺盛な筆力と精神の強靭(きょうじん)さに舌を巻いた。
さて、私がせいに追いついたと実感したわけは単純だ。「老いて」を書いたせいと同じ年齢になったからだ。
今までは、70代の作者の作品に20代の読者のままで接してきたが、今回は初めて「読者も数え75歳」であることに気づいて、心が揺さぶられたのだった。
「私も老いた。耳をすませば、周囲の力なく崩れてゆく老人たちの足音につづいて、歩調がゆるんでよろめいてゆくのが日に日にわかる」
しかし、「老いて」のテーマは肉体的な衰えよりは、「憎しみだけが偽りない人間の本性だと阿修羅のように横車もろとも、からだを叩きつけて生きて来た昨日までの私」を、夫・混沌の残した詩を読むことで深く恥じるところにある。
「なげくな たかぶるな ふそくがたりするな/じぶんをうらぎるのではないにしても/それをうったえるな」
夫の詩を読んで、せいは生々しい繰り言はかき消そう、「しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか」と思い至る。
そして、「胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい」と締めくくる。堂々とした老いの自覚、いや覚悟だ。
0 件のコメント:
コメントを投稿