きのう(5月11日)のブログの最後に、こう書いた。笠間藩神谷(かべや)陣屋は今の平六小のところにあった。しかし、最初は字苅萱(かるかや)、わが家の裏手に設けられた。わが行政区内だ。字のひとつに「下知内(げちうち)」がある。なぜ下知内なのか。陣屋がそばにあったからだと、今ならいえる――。
志賀伝吉著『神谷村誌』に、字名の付いた中神谷村の略図が載る=写真。一番南に夏井川が蛇行している。川の中に「川中島(御仕置場)」とある。首切り場だ。さらに、その下流左岸には「調練場(ちょうれんば)」。左カーブの広い河川敷になっている。調練場の内陸側に、「大年(おおどし)」「天神(てんじん)」をはさんで「苅萱(大門口)」がある。
『いわき市史 第2巻 近世』も参考にして説明すると――。今の旧道(江戸時代の浜街道)に面して、字宿畑(しゅくはた)と細田(ほそだ)の境に大門があった。現在、細田には県営住宅が立つ。宿畑は主に戸建て住宅地。わが家もその一角にある(震災後、住宅に囲まれて残っていた畑が、アパートに替わった)。
つまり、江戸時代後期、浜街道に沿って陣屋があり、陣屋の裏手の先に藩士の兵式訓練を行うための河川敷が広がっていた。で、調練場という字名がついた。旧道から大門への道がたぶん、そのまま今も宿畑と細田を分けている。さらに、新しい国道6号(現在は国道399号)が元陣屋跡を突き抜けるかたちで設けられ、新旧国道をつなぐ道ができた。
苅萱に陣屋がおかれたのは延享4(1747)年。ところが、夏井川に近いため、ときどき水害に見舞われた。そこで文政6年(1823)、600メートルほど離れた小川江筋沿いの山際に移転し、明治維新を迎える。
古老の伝承では、苅萱という字名は旧陣屋で「石童丸」の芝居を興行したことが始まり。近郷近在から見物人が集まり、「きょうも苅萱、あすも苅萱」と大変な人気を呼んだという。で、芝居の曲名「苅萱道心筑紫の家苞(いえづと)」から、字名には「刈萱」ではなく「苅萱」とクサカンムリが付いた、と志賀さんは書く。実は、なぜ「刈萱」ではないのかと、ずっと気になっていた。
明治3(1870)年に撮影された、侍(笠間藩神谷陣屋奉行・武藤忠信)の写真コピーを手に、コロナ禍による大型連休の巣ごもり勉強で、わが行政区にまつわる歴史・伝承を初めて知った。
神谷市郎著『神谷郷土史』によると、わが家の近所に笠間藩主が来村した際、宿所になった旧家がある。「郷宿(ごうしゅく)」という。字名の宿畑はそれに由来する。つまり、郷宿の畑。
宿畑や細田、下知内をはじめ、わが行政区の住民は私も含めて、ほとんどがよそからの移住者だ。土地の歴史に関しては知識がゼロに等しい。しかし、江戸時代に陣屋があったところに住んでいるとなれば、地元への愛着も芽生えてくるのではないか。
連休前と後では、地域を見る目が変わった。いや、見えていなかったものが見えるようになった。少なくとも、区の役員さんにはこうした“史実”を整理して伝えることにしようと思う。(この項、おわり)
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