2020年5月29日金曜日

元検事総長の回想録

 カミサンの同級生がダンシャリをした。「本があるけど」というので、引き取りに行った。古着・古本・食器などを必要な個人や団体に渡すリサイクルの中継基地のようなことを、カミサンがやっている。もちろんボランティアで、だ。私は運転手。黙って従うだけ。
 カミサンの同級生の本の中に、伊藤栄樹『秋霜烈日――検事総長の回想』(朝日新聞社)があった。同級生は中南米音楽の店をやっている。客層はさまざまだ。どんな話題にも対応できるよう、硬軟取り混ぜて本を読んできたのだろう。人をそらさないための努力の一端が垣間見えるようだ。(『秋霜烈日――』は手元に置くことにした)

 そのころ、元サンケイスポーツ記者で作家の本城雅人が書いた小説『傍流の記者』(新潮社)を睡眠薬代わりに読んでいた。こちらは最初、タイトルがピンとこなかったが、読み進めていくうちに新聞社内部の主流・傍流の意味だとわかる。政治部が主流、社会部が傍流――。保守系メディア「東都新聞社」の社会部同期6人(うち1人はすでに人事部長)の出世競争物語だ。

 昼は『秋霜烈日――』を、夜は『傍流――』を読んでいるとき=写真=に、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス=ツイッターなどの会員制交流サイト)で検察庁法改正案への猛抗議が起き、直後に、渦中の東京高検検事長が産経記者2人、朝日元記者1人と賭けマージャンをしていたことが、週刊文春に報じられた。高検検事長はあっという間に辞職した。マージャンはやらないが、やる人には魅力というか、なにかのめりこんでいく魔力のようなものがあるのだろう。

 今度の法改正案には検事総長などを経験した検察OBも危機感を覚え、法務省に意見書を提出した。ネットで元最高検検事がまとめた意見書の全文を読んだ。

首相が国会で「検察官にも国家公務員法が適用される、と従来の解釈を変更した」と述べたことに対して、意見書は「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕(ちん)は国家なり』との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせるような姿勢」と断じた。

『秋霜烈日――』に、法務大臣の指揮権発動にからんだ文章が出てくる。「検察権は、三権のうちの行政権に属する。だから、内閣がその行使について国会に対して責任を負う。一方、検察権は司法権と密接な関係にある。検察権の行使が政党内閣の恣意(しい)によって左右されることになれば、ひいては、司法権の作用がゆがめられることになる」

 検察の扱う事件が政党内閣の恣意に左右されてはならない、政党内閣の都合で検察幹部の人事がゆがめられてはならない――改正案に反対する理由がここにあるのだと、地域の片隅で暮らす人間もやっと合点がいった。

 若いときに警察・裁判所回りをした。全国紙・県紙の記者たちと田町へ飲みに行くと、検事がいた。記者も検事も転勤族だ。他紙、特に全国紙の記者は東京で、あるいはよその土地でまた顔を合わせるかもしれない。全国紙の記者は検事とそうしてつながっていくのかと、妙に納得したのを覚えている。

高検検事長と記者の賭けマージャンから、遠い日々の記憶がよみがえった。同時に、「密着しても癒着するな」という他社の先輩記者のことばを骨に刻んだことも。

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