2020年5月9日土曜日

郡宰武藤忠信①真像

「こんなものが出てきました」。いわき地域学會の若い仲間から黄変した写真のコピー=写真=を見せられたのは2月末。ちょんまげ姿の侍の座像だった。裏には「明治三庚午(かのえうま)年 南呂望/武藤忠信/五十七歳真像/明治四十二年十一月磐城湯本古山写真舘ニテ複写ス」とあった。
 今から152年前、いわきの地で西軍と東軍が、世にいう「戊辰戦争」を戦った。磐城平、湯長谷、泉の3藩は東軍(奥羽越列藩同盟軍)に、笠間藩神谷陣屋は本藩に従って西軍(新政府軍)に加わった。

現代の役所風にいえば、神谷陣屋は本庁から遠く離れた飛び地の支所。支所長以下、多勢に無勢の状況によく耐えて生き伸びた。地元・中神谷の大円寺の境内に「武藤忠信君碑」がある。それを知ったのは、震災前の2009年春。そのときの拙ブログを抜粋して紹介する。
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慶応4(1868)年の新政府と佐幕諸藩の戦いは、鳥羽伏見から江戸へ、東北地方へと拡大する。磐城平藩など奥羽越25藩が列藩同盟を結ぶと、これを討つべく新政府は西藩連合の大軍を北へさし向けた。

 西軍は陸路・海路2コースに分かれて進攻した。海からの軍勢は平潟に上陸した。磐城で西軍と東軍が対峙し、「磐城の戊辰戦争」の戦端が切られる。が、東軍は敗走し平城も炎上する。市街戦の兵火によって多くの家が失われた。(いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』)

 いわき市民の圧倒的多数は、戊辰戦争を磐城平藩など列藩同盟の敗北として認識している。ところが一部、笠間藩分領で陣屋が置かれた旧神谷村などの受け止め方は違う。本藩が西軍に加わったために、陣屋兵約50人は四面楚歌の戦いを余儀なくされた。陣屋や領内・四倉の名刹薬王寺、農家などが東軍に焼き払われた。が、ともかく勝ち組に入った。

 志賀伝吉著『神谷村誌』にこうある。――奥羽連合軍の中にあって官軍として戦い抜いた陣屋兵の雄渾な精神は新政府からも高く評価され、平城が落ちてからは平藩内外の守備の任に就くとともに新政府との連絡に当たり、通達事項はみな神谷陣屋を経て行われた。

 もとは同じ磐城平藩。藩主の国替え時に天領となり、笠間藩の分領(一時磐城平藩預かり)となって、明治維新を迎えた。

  神谷に住んでいる。朝晩、散歩する中で、いち早く開花した寺のサクラの木の下に古びた顕彰碑があるのを見つけた。戊辰戦争時、神谷陣屋の責任者だった武藤忠信をたたえる碑(いしぶみ)だった。
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真像(写真)を見た瞬間、武藤忠信の肝力のようなものに圧倒された。射抜くような眼光、真一文字に結んだ口。右手はこぶしをつくって脇息に載せ、左手には扇子?を握っている。右指の武骨さが際立つ。大刀は左の刀掛け台に、小刀は腰に差して、羽織袴で正座した姿からは、いかにも武士らしい雰囲気が伝わってくる。

 この大型連休中、真像のコピーをそばに置きながら、神谷陣屋と武藤忠信について調べた。といっても、図書館は“コロナ休館”が続いている。ネットで検索してもほとんど情報がない。手元にある神谷市郎著『神谷郷土史』を読み返したが、武藤忠信についてはやはりよくわからなかった。

あらためて「武藤忠信君碑」の前に立った。漢文なので意味はよくわからない。中に「郡宰」という文字があった。人によっては忠信を「奉行」とか「代官」とかと書いているが、支所長、つまり陣屋のトップの奉行とみて間違いはなさそうだ。その視点から限られた資料を読んでいるうちに、いろいろ興味深いことが見えてきた。それについてはあした以降に――。

 この真像は3・11のとき、一度、津波につかった。持ち主がダンシャリをせずに残しておいたため、歴史的資料としてたまたま私たちが目にすることができた。なんといっても、明治3(1870)年という早い時期に撮影されていることに驚く。どこでどう保管・公開したらいいものか、若い仲間は悩んでいる。

裏書きにある「南呂望」とは? 複写を引き受けた湯本の「古山写真舘」とは? こちらも気にかかる。湯本に住む地域学會の会員に聞けば、なにかわかるかもしれない。

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