2020年5月1日金曜日

鍋ラーメン

 夕方のテレビのニュース番組で知った。テイクアウト(持ち帰り)の一種だ。ラーメン屋へ鍋を持って行く。どんぶりの代わりに、鍋に調理したラーメンを入れてもらう。それを持ち帰って、家で食べる――。
テレビを見ながら、昭和30(1955)年前後の少年時代にタイムスリップしていた。「豆腐、買って来(こ)ー」。母親にいわれて、近所の豆腐屋へ鍋を持って出かける。今のように1個ずつパックに入っているわけではない。水槽に長い豆腐が沈んでいる。それを切って鍋に入れてもらう。

高度経済成長が始まったころの、東京の下町を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のような世界。

鍋を持って豆腐を買いに行くのは、阿武隈の山里では当たり前のことだった。いや、阿武隈に限らない。平のマチでも、東京でもそうだったろう。隣家から醤油を借りる。酒や焼酎の買い物には空き瓶を持って行く。風呂も両隣の間で入りに行ったり、もらいに来たりした。

リデュース・リユース・リサイクルが当たり前の、貧しくても助け合って暮らした日々。

即席ラーメンは昭和38(1963)、中3のときの記憶が鮮明だ。母親が受験勉強の夜食につくってくれた。高専の寮では片手鍋でお湯を沸かし、硬い麺を入れてほぐし、粉末スープを加えてそのまま食べた。これこそが「鍋ラー」の始まりだったろう。

新型コロナウイルス感染問題が鍋持参の買い物を復活させた。それはコロナ禍が終息したら消えるものだろうか。想像もしなかったパンデミック(世界的大流行)。市民の外出自粛が続く今、店の経営者も消費者も日常のリスクを考えないといけなくなった。

3・11のときもそうだった。3・11の前と後とでは世界観が変わった。地震・津波・原発事故、そして今度はウイルス。あらためて人間の生き方を、文明のあり方を見直さないと――というわけで、おととい(4月29日)から、哲学者内山節さんの本を読み返している。

まずは『内山節のローカリズム原論』(農文協)と『文明の災禍』(新潮新書=写真)。きのう(4月30日)は『いのちの場所』(岩波書店)と『戦争という仕事』(信濃毎日新聞社)。

昼は、味噌ラーメンだった。スーパーから買って来たものを、鍋ではなくどんぶりで食べた。味がしみた。

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