いわき地域学會の若い仲間が、真像のコピーとともに、赤い印影がいっぱい並ぶ紙を持ってきた。なかに「笠間藩民政局」「楢葉郡大久村長武藤忠佳」「笠間藩武藤氏蔵書」といった四角の印影があった=写真上。忠佳は忠信の長男で、やはり戊辰戦争時、陣屋に詰めていた。
いわき地域学會編『新しいいわきの歴史』によると、新政府は戊辰戦後の慶応4(1868)年、平に磐城平民政局を置いて、磐城平・湯長谷・泉の3藩や小名浜・四倉などの幕領を支配、管理した。
同年秋に元号が明治に替わったあと、いわきの3藩は笠間藩・三春藩による民政取り締まりを受ける。同2年の版籍奉還後は、許されて旧藩地に復帰する。さらに同9年、福島・会津・磐前3県が合併する形で、ほぼ今のような福島県が成立する――。
幕藩体制が崩壊し、明治国家体制が確立するまで、行政その他の制度がめまぐるしく変化した。「笠間藩民政局」の角印は、その意味では戊辰戦争直後のカオス状態を物語る歴史的遺物といってもいいのではないか。
明治22(1889)年には「明治の大合併」が行われる。神谷陣屋のあった中神谷村は、上神谷・塩野(塩)・鎌田・上片寄・下片寄各村と合併して「神谷村」になる。初代村長は神谷陣屋代官・長保壽の長男・壽男だった=写真右(神谷市郎『神谷郷土史』から)。
大久村も同年、小山田・小久・大久の3村が合併して誕生した。武藤忠佳が村長に就いた時期は調査不足で不明だが、長とそう違わなかったのではないか。
印影には「福島縣田村郡小野新町村組合長武藤忠佳」というのもあった。忠佳は小野新町村でも行政の責任者を務めたらしい。それはたぶん大久村長のあと。理由は、大久より小野新町の方が人口・産業規模とも大きかったはずだから。
神谷陣屋の盟友は明治維新後も新しい村づくりに奮闘した――そんな視点で「戊辰戦後」を見るのも面白そうだ。
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