2020年5月11日月曜日

郡宰武藤忠信③記念碑

 笠間藩神谷陣屋の武藤忠信を検索してヒットした唯一の資料が、昭和48(1973)年8月13日付のいわき民報「いわき拾遺(50)」だった。四倉町の名刹・薬王寺の石柱前に「神谷戦蹟之碑」がある=写真。その碑文(漢文)を紹介してい
私は同46年4月、いわき民報社に入社した。その年の8月、内郷の斎藤実さんが朋友の画家熊坂太郎さんと組んで、週に1回、「いわき再見」という連載を始める。斎藤さんは記者ではない。炭鉱に勤めながら文芸同人誌などに文章を書いてきた。退職後、いわき民報社に再就職した(のだろう)。報道部とは別の部屋にいて、いわき市内のあれこれについて、毎回、長文を書いた。

「いわき再見」のあと、「いわき拾遺」が始まる。最終回に笠間藩神谷陣屋の戊辰戦争を取り上げた。見出しに「薬王寺の神谷戦蹟碑/勤皇佐幕のチャンバラ劇」とある。碑の漢文は笠間藩の最後の殿様で子爵の牧野貞寧(さだやす)が書いた。その漢文を、斎藤さん流に俗語を使って読み下したものだった。

 入社して間もなく、報道部長に誘われて、よく社の近くの小料理屋へ飲みに行った。決まって斎藤さんがいた。カウンターで大先輩2人に挟まれながら話を聞いた。

だからこそというべきか、半世紀近くたった今、斎藤さんの文章を読むと、漢文をかみ砕きすぎたのではないか、という思いがする。扁額の「神谷戦蹟之碑」を隷書体と紹介しているが、篆書体の誤りであることも、この年になるとわかる。

 平・中神谷の大円寺に「武藤忠信君碑」がある。こちらは最後の殿様が扁額を、太田武和が撰文を担当した。碑文には「郡宰」とある。薬王寺の碑は「邑宰(ゆうさい)」。意味としては同じだろう。斎藤さんはこれを「代官」と解釈した。私は「奉行」だ。代官でも奉行でもいいではないか、ということにはならない。『いわき市史 第2巻 近世』など数少ない資料を読んで、やっと「奉行」という確信を得た。

「代官でいい」「いや、奉行です」。彼岸に行って斎藤さんに会い、酒を飲んで「神谷戦蹟之碑」の話になったら、たぶんそんなやりとりをするにちがいない。

ま、それはさておき、薬王寺は笠間藩分領内の名刹だ。四面楚歌のなか、陣屋を明け渡したあと、武藤忠信ら陣屋の藩士たちは薬王寺へ退去する。その寺もまた、陣屋と同じように東軍に焼き払われる。

大円寺の漢文のなかには、武藤忠信の文化的素養、趣味に触れたところがある。「好誦戦史咏俳詞――」。「戦史を誦(ず)し俳詞を咏(よ)むのを好む」と解釈していいのかどうか、俳詞を俳句と言い換えていいのかどうか、悩ましいところだ。

もし忠信が俳人でもあったとしたら、幕末~明治初期の句集に作品が入集していてもおかしくない。俳号がわかれば、作品にたどり着くのはそう難しいことではないだろう。

この大型連休は1枚の真像(写真)のコピーをそばに置いて過ごした。知りたいことが次々にわいてくる。それを調べる。若い人に教えてもらう。するとまた、別の興味が生まれる。そうして宿題の海を漂っているうちに、ある日突然、宝の島に上陸した――そんな気分でいる。

笠間藩神谷陣屋は今の平六小のところにあった。しかし、最初は字苅萱、わが家の裏手に設けられた。わが行政区内だ。字のひとつに「下知内」がある。なぜ下知内なのか。陣屋がそばにあったからだと、今ならいえる。くわしくは、あした。

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