先日、いわき市四倉町の日鉄鉱業八茎鉱山と住友(磐城)セメントの映画を見た話を書いた。併せて、鉱山(ヤマ)の愛唱歌「鉱山野郎」を紹介した。映画には玉山の社宅や小学校(今春閉校した大野一小)の運動会の様子も映っていた。
大野一小に通っていた高専の後輩と知人(女性)からフェイスブックにコメントが寄せられた。
後輩。「八茎鉱山の社宅出身。小学2年生までは八茎分校に通い、その後、袖玉山に移り、大野一小に通った」。父親は「鉱山野郎」にも歌われたサハリン(樺太)出身だという。
知人。「小学生のころ、学区の再編か何かで、それまで四倉小に通っていた日鉄子女が大野一小に通うようになった。ピアノが弾ける男子とか、一挙に都会がやって来た」。常磐炭砿では、職員の子女が湯本や内郷から平一中に越境通学をしていた。それと同じことが八茎鉱山でも行われていたのだろう。
四倉出身の同期生からは「鉱山野郎! 最近出色の記事! 地元でもあり、高専時代にアルバイト経験、今後転用させてもらいます」というメールが届いた。
拙ブログにしては珍しく反響があった。うれしいことだが、四倉の八茎~玉山方面の地理にはうとい。歴史も、地元の故本多徳次さんが著した『四倉郷土史』(四倉郷土史刊行会、1958年)で知る程度だ。
なぜそうなのか。地元の人間の話も参考にしていうと、低山なのに険しい山々が続く。現地に出向いての調査・研究が容易ではない。それで、いつしか地域学の網の目からこぼれてしまった――ということではないだろうか。
日曜日(7月26日)、夏井川渓谷にある隠居からの帰り、小川・高崎から二ツ箭山腹を通って四倉・玉山に抜ける広域農道を利用した。起点部の玉山字炭釜地内は台地になっている。コンクリート資材置き場のわきの細道を上っていくと、分かれ道に「新八茎鉱山玉山社宅配置図」の案内板があった=写真。社宅群の映像が幻影となって脳裏に映った。
そのあと、地理院地図とグーグルアースで何度も一帯の道路網を、山の高さを確かめた。未知の土地では、私は川を軸にして考える。水源部では川が接近していても平野部では大きく離れている。山が障壁になる。だから、人と人との交通は主に同じ流域になる。道路建設も川と山に影響される。
八茎~玉山一帯の小河川は平野部で本流の仁井田川に集約される。仁井田川の水源も、千軒平溜池の北西にある猫鳴山で820メートル、北にある三森山で655.8メートルと、そう高いわけではない。が、地理院地図で確かめると、深奥部では道が途切れている。ケータイも通じない。迷ったら命の危険がある、と地元の人間は言う。
八茎は仁井田川の源流部だが、玉山は山をはさんだ東隣、袖玉山川沿いに伸びる。そこに社宅があった。主要道路(県道八茎四倉線)は仁井田川ではなく、袖玉山川沿いなのも、仁井田川より地形的に人の行き来が容易だったからだろう。
単純に、玉山の奥に八茎があると思っていたが、川を見るかぎりは別の流れだった。同時に、袖玉山川沿いに道路を設け、専用鉄道を敷設する方が駅に近いので安上がり――地図をじっと見ていると、そんな妄想がわく。いやいや、昔の実業家はとっくにそれを見抜いていた?
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