ある晩の食卓に並んだおかずは、すべて「お福分け」だった=写真。7月1日に「お福分けの習慣」と題して書いた。今回はいわば、その続編――。
インゲンのてんぷらとナスの煮びたしは知人からいただいた。知人はわが家から車で5分ほどのところに住んでいる。孫が今春、ローカルテレビ局のアナウンサーになった。ハラハラしながら見ているという。なかなかどうして、堂々たるものだ。
赤いスイカと黄色いスイカ、小瓶に入った鹿児島風ゴーヤーの酢漬け(梅肉入り)は後輩から。スライスしたキュウリは糠漬け。近所のカミサンの知人が「昔きゅうり」風のずんぐりしたものを持ってきた。写真には写っていないが、炊き込みご飯も、てんぷら・煮びたしと一緒に知人から届いた。カミサンは「料理しないですんだ、家計も助かる」と大喜びだった。
ゴーヤーの酢漬けはすんなり口に入った。鹿児島風とあるのは奥さんの母親がつくったものを現地で食べたからか。今年(2020年)初めてゴーヤーを植えつけ、義母の味の再現を試みたのだという。
食べた瞬間、甘酸っぱさが広がり、ゴーヤーの苦さがほとんど気にならない。食べ終わったあと、かすかにほろ苦さが漂うが、それも逆にゴーヤーをおいしく食べたという満足感と結びついている。
後輩は実にいろんなものを栽培している。スイカは「甘くなければ捨てて」といっていたが、それなりの甘さだった。冷えたのを、晩酌の合間に食塩を振って食べた。茶の間は夜になっても30度を超えたまま。汗とともに出た塩分の補給といい口直しになった。
夏井川渓谷の隠居の庭で栽培しているトウガラシも続々と実を付けている。「大辛」の青トウガラシはへきえきする辛さだが、「青南蛮(あおなんばん)の醤油(しょうゆ)漬け」にしたら、うまい具合に辛み成分が醤油にしみだし、とびあがるほどの辛さではなくなった。
ガバガバ食べるものではない。試食を兼ねて。小皿に少し取って晩酌のつまみにした。いける。といっても、珍味の部類だが。冷ややっこに、たれ(醤油)ごと青南蛮を載せたら、辛みがほどほどに溶けあい、豆腐とからみあって乙な味だった。
道の駅で買った漬物にも大辛のトウガラシが入っていた。こちらはわきによけて、キュウリその他をご飯のおかずにしている。このままだと、トウガラシだけが残る。焼酎のチェイサー用の水にトウガラシを入れたら、次第に水が辛くなった。梅干しを入れれば「梅ジュース」だが、青南蛮は「辛い水」だ。それはそれで発汗を促す作用がある。
さて、「お福分けの習慣」にも書いたことだが――。私たちはカネを出してモノを買う。消費者である以上、それはこれからも変わらない。しかし、「100%消費者」では、世界が凍りついたときにサバイバルができない。コロナ禍がそれを教える。
家庭菜園をやる。「コンシューマー」(消費者)であっても、「プロデューサー」(生産者)になる。自分でつくったものや、山野から採ってきたものを加工する。食べる。お福分けをする。『第三の波』のアルビン・トフラーがいう「プロシューマー」(生産消費者)として生きる。
もっといえば、40代で家庭菜園を始める前、自分の仕事にむなしさを感じていた。人に話を聞くだけ、なにか創造的なことをしているだろうか――と。ミラン・クンデラの小説のタイトル、「存在の耐えられない軽さ」がもやもやとした胸の内をいい表していた。
この「存在の耐えられない軽さ」を救ってくれたのが、週末の土いじりだった。大地に二本の足で立って野菜をつくっている、という「労働」の実感が、逆にコラムを書くエネルギーになった。だから、国が、メディアが「新しい生活様式を」というたびに、いや、古くて新しい生き方がある、プロシューマーになればいいのだと、自分に言い聞かせる。
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