ガラス壁面に心平の詩「猛烈な天」3連11行が記されている。その第1連。「血染めの天の。/はげしい放射にやられながら。/飛びあがるやうに自分はここまで歩いてきました。/帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。」
「猛烈な天」の下、二ツ箭山のふもとに水田が広がる。山際に家が点在する。手前にも水田が広がり、その間を時折、車が通る。家も道沿いにある。そこが小川のどのあたりか、土地勘のない人間には見当がつかない。
文学館で会議があり、終わって付属のカフェレストラン「スピカ」で地元出身の文学館長らと茶飲み話をした。二ツ箭山のふもと、向かって右端に大きな建物が見える。「小川小学校?」「育英舎です」。正面、2列になっている水田のうち、奥は?「福岡です」。すると、手前は「片石田」だ。ようやく小川町の集落の北西端に当たる一帯が、ドローンで見るように三次元で立ち上がってきた。
あとで、地形学が専門だった故里見庫男いわき地域学會初代代表幹事の教えを思い出しながら、地理院地図と『土地分類基本調査 平』(福島県、1994年)の地形分類図を開いて、あれこれ探ってみる。標高と地質がわかった。
福岡は標高90メートルほどの「中位砂礫(されき)段丘」、片石田は同50メートルほどの「谷底(こくてい)平野」だ。片石田の田んぼ道(県道小野四倉線)は毎週日曜日に利用する。一段上の福岡にも知人が住むので、そのへんの地形は頭に入っている。
しかし、はるか対岸の文学館から見た全景は、印象がまるで違っていた。中位段丘の平坦(へいたん)面が手に取るようにわかる。その下の谷底平野とは、崖ではなく“森”で隔たっているだけのように見えた。つまり、水田が2段になっているのではなく、“森”をはさんで向こうとこちらとでつながっている――そう錯覚していた。見る場所によって表情を変える地形の面白さである。
そういえば、東日本大震災では二ツ箭山頂の女体山の岩の一部が剥落した。頂上からずっと右側、桐ケ岡林道ののり面も崩れた。今は防災工事が終わって通行が再開され、のり面にもうっすらと緑が戻ってきた。
3・11から2カ月余がたった5月下旬、いわき市内の鉱物を研究しているいわき地域学會の知人の案内で、現地を訪ねた。月山登山口の先で大量の土砂が林道を埋めていた。
物の本によると、新第三紀の後半、二ツ箭断層を境にこの山の南側がずり落ちた。新第三紀は2303万年前から258万年前の間というから、約1150万年前から258万年前の間に大地の変動が起きたことになる。林道の下方に断層の破砕帯がある。それを見た。大昔には土石流も起きたはず、と知人はいう。そういう場所に、今は中腹まで人が住み、梨畑などが広がる。
3・11から1カ月後、いわき市南部の井戸沢断層(塩ノ平断層)と東隣の湯ノ岳断層が動いて、巨大地震が発生した。東電の福島第一、第二原発までの距離は、中部の二ツ箭断層の方が近い。3・11後、東電はこの断層についても地震発生が促進される傾向にある、と評価を変えた。
ただの絵はがきのように、二ツ箭山の風景を見ることはできなくなった。そう、二ツ箭山は地形学の教科書のようなところ、文学館は小川の山と川、丘の成り立ちを知る地形学の教室、といってもいいのではないか。
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