福島県東部を縦断する阿武隈高地の主峰・大滝根山(1193メートル)の北西部、田村郡常葉町(現田村市常葉町)で生まれた。一筋町の北東に鎌倉岳(967メートル)、北西に移ケ岳(995メートル)がそびえる。
子どものころから身近だったのは、同じ郡内の町と村。東隣の都路村(現田村市都路町)には母親の実家がある。西隣の船引町には仲間と自転車で汽車を見に行った。山陰の町や村、さらにその先の市町村は、それからおいおいと知ることになる。
鎌倉岳の北にあるのは葛尾村。この村のことは、小さいときから耳には入ってきた。一番身近な「双葉郡」だ。
いわき市と山形県南陽市を結ぶ総延長約195キロの国道399号は、起点がわが生活圏の中神谷で、同じいわき・小川町から阿武隈高地の川内村~都路町~葛尾村~浪江町~相馬郡飯舘村を通る。原発事故では1Fの北西に位置するこれら浪江・葛尾・飯舘一帯が特に汚染された。
「帰還困難区域」の浪江町赤宇木(あこうぎ=請戸川流域)と飯舘村長泥(新田川支流・比曽川流域)は尾根をはさんで隣り合っている。赤宇木の西側、葛尾村に接する浪江町津島にはテレビで有名な「ダッシュ村」がある。
事故から9年半。飯舘村の長泥行政区はこれからどうなるのか――。福島民報の連載「復興を問う 帰還困難の地」の11回目(2020年8月3日付)に、同世代の男性が登場した。後半部で男性と、同じ長泥生まれの奥さんが回想する=写真。「幼い頃、夏休みになると収穫した麦の脱穀を手伝った。汗ばんだ肌にもみが張り付いた」
このくだりを読みながら、胸のなかで叫んでいた。「同じだ、同じ経験をした」。都路の母親の実家でも、一家総出で麦の脱穀が行われた。そのときの思い出が、足踏み脱穀機と唐箕(とうみ)とともによみがえる。
足踏み脱穀機は木製のドラムに逆V字型の鉄の歯がさしてあり、ペダルを踏むと「ガーコン、ガーコン」と回転する。そこへ麦の穂を当てて脱穀する。
手で回さずに足踏みから始めると、手前に逆回転する。みんなが昼食をとっているとき、ひとりで「ガーコン、ガーコン」とやり始めたら、逆回転してドラムに手をはさまれた。痛かった。
単に田村郡や双葉郡、相馬郡といえば遠く離れた地域に思われがちだが、山間部は同じ阿武隈の水源地帯だ。山に網をかぶせたように、里から里へと道路がつながっている。
豊かで美しい里山、澄んだ空気、清らかな水、日本の原風景ともいえる景観、さまざまな農産物、伝統文化、生活文化を体感できる地域――。常葉の鎌倉岳に登った劇作家の田中澄江さんは、頂上からの眺めを「スイスの山村さながら」(『花の百名山』文春文庫)と評した。それと呼応するように、国道399号を「あぶくまロマンチック街道」として売り出す動きがあった。
しかし、直後に原発事故が起きる。主に双葉郡の人たちは着の身着のまま、西へ西へと阿武隈高地を越えた。避難したその日から、自然と共存した生業(なりわい)・暮らしを断ち切られた。
新聞の連載記事を読み、少年時代を思い出して、はたと気づいたことがある。長泥の同世代の男性と同様、私の子どものころの「麦の脱穀」の記憶もまた、原発事故で“汚染”された。記憶は、いつかは昇華されて青空になると思っていたが、文明がもたらした災厄は、そうした文脈をはるかに逸脱している。9年半くらいでは「過去」の範疇(はんちゅう)には入らない。どころか、住民の過去、地域の歴史まで汚染する。
阿武隈ではこの月遅れ盆、コロナだけでなく、帰還困難区域のために帰れない「魂」がある。
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