2020年8月24日月曜日

死を見つめる日々だったか

                    

 庭のフヨウが咲き出した=写真。朝起きて、台所の軒下にあるキュウリの様子をチェックし、玄関の左右にあるフヨウの花を眺める。それから新聞を手にして家に入る。

おととい(8月22日)は、フヨウの花が一気に20~30個も咲いていた。一日花だから、前日に咲いた花はしぼんでいる。落下しているのもある。これからしばらく、咲いてはしぼみ、咲いてはしぼみが続く。

 新聞を読む前に、折込チラシの枚数を数え、「お悔やみ情報」をチェックする。そこにK君の名があった。「〇×がんになった」。何カ月か前、そう打ち明けられた。だから、驚きというよりは、ついに、という思いが先にきた。

 同じころ、いわき民報社に入社した。編集と営業、畑は違っても、ライバル心のようなものがあった。年齢も同じだった。ユーモアがありながらも辛辣(しんらつ)――それが彼の語りの特徴だった。

彼は早々と組織に見切りをつけ、個人運送業を始めた。東日本大震災のときには、仕事で沿岸部を巡っていた。かろうじて大津波にのみこまれずにすんだ。本人からその話を聞いたのは、彼が隣の区の区長に就いたあとだ。

彼も私も、もとは笠間藩領の地域の住人だ。大きな行政区だったので、おおよそ四半世紀前に三つの区に分かれた。私のいる区は、いわば“分家”。“本家”は2年ごとに区長になる人が決まっている。こちらは後継区長が決まるまではバトンタッチができない。で、彼が“本家”の区長になると、2年間、ちょくちょく顔を合わせた。

 私のブログもフェイスブック経由で読んでいた。がんであることを打ち明けられてからは、彼の「いいね」は「生きてるよ」のサインになった。

 彼が亡くなったのは、「お悔やみ情報」によれば8月19日の深夜だ。最後の「いいね」は、その25日前の7月25日(「『黒い半纏』の話に」)だった。

彼は毎日、「いいね」を押すタイプではない。いや、毎日読んでいたわけでもないだろう。7月は20日(「隠居の庭木の剪定終わる」)、21日(「新・洪水ハザードマップ」)、22日(「タオルが必要なとき」)、23日(「キュウリの古漬けづくりを始める」)と連続して「いいね」を押している。死を見つめる日々、たまに私のブログを読んで彼は何を思ったか――。

 そういえば、3年前の2017年8月末、やはり庭のフヨウが豪勢に咲き出したころ、シャプラニール=市民による海外協力の会のスタッフから、いわき市出身のNHK解説委員早川信夫さんが亡くなったという知らせを受けた。シャプラに思いを寄せていた記者だった。享年63。脳出血による突然の死だったという。

彼は震災後、ふるさといわきに足を運び、原発避難者などを継続して取材していた。わが家へ話を聞きに来たこともある。

フヨウの花が咲くたびに、死者の顔が、思い出がよみがえるようになるのだろうか。

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