シャルロッテ・ザロモン(1917~43年)も、サミュエル・イェスルン・デ・メスキータ(1868~1944年)も画家だ。2人ともアウシュヴィッツ強制収容所で亡くなった。
いわき総合図書館へ行ったら、新刊コーナーにダヴィド・フエンキノス/岩坂悦子訳『シャルロッテ』(白水社)があった=写真上。本の扉に「この小説はシャルロッテ・ザロモンの人生から着想を得ています。/彼女はドイツの画家で、妊娠中に二十六歳の若さで殺されました」とあった。早速借りて読む。
真ん中あたりまで読み進んだとき、いわき市立美術館で「リサ・ラーソン展」を見た。カミサンは次回「メスキータ展」(9月12日~10月25日)のチラシを持ち帰った=写真下。
メスキータはオランダで活躍した画家だという。美術学校時代の教え子に、「だまし絵」で知られるマウリッツ・エッシャー(1898~1972年)がいる。エッシャーはメスキータに才能を見いだされた。
メスキータは家族とともにナチスに逮捕され、ほどなくアウシュヴィッツで殺される。エッシャーら彼の友人・知人たちはアトリエに残された膨大な作品の一部をひそかに運び出し、守り抜いた。戦後はメスキータの顕彰に努めた――とチラシにある。
まずは、小説『シャルロッテ』――。1文1行で改行する、詩のような分かち書きが新鮮だ。
「一九三三年一月、憎悪が権力の座につく。」。だれのことかはいわなくともわかる。「ユダヤ人が施す治療については医療費が支払われなくなる。/教諭資格を剥奪される。/(略)暴力は広がり、本が焼かれる。」。日々の暮らしのなかで差別と排除がエスカレートしていく。
「学校では、祖父母の出生証明書の提出が義務づけられる。/それによって、自分にユダヤ人の祖先がいるのを少女たちが知る。/するとたちまち、その子たちはのけ者にされる側になる。」
そして、ユダヤ人の大虐殺政策。彼女は南仏に逃れたものの、捕まってアウシュヴィッツへ送られる。
彼女の絵は大きな旅行かばんに入れられ、主治医でもある南仏の医師に託された。「これは私の全人生よ」という言葉とともに。
やがて戦争が終わる。旅行かばんは、かろうじて生き残った彼女の父と義母のもとに返される。両親は新しい生活の地、オランダ・アムステルダムのユダヤ歴史博物館に彼女の絵を寄贈した。1961年、ようやく「天才画家」の絵が公開され、展覧会は大成功を収める。
一方のメスキータは――。回顧展のチラシに彼の作品が何点か載る。息子だか弟だかを描いた木版画「ヤープ・イェスルン・デ・メスキータの肖像」は、鼻と口がそのままネコ科、あるいはイヌ科の獣の顔になっている。作品をさかさまにして見ると、蝶ネクタイが黒い髪の毛の人間の目になり、ずらした眼鏡と目もカエルの顔のように見える。エッシャーのだまし絵は師匠のメスキータ譲りだったことを知る。
ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」の象徴として描きだした大量虐殺の中心人物、アイヒマンは「100人の死は悲劇だが、100万人の死は統計だ」と言い放った。
この冷血的言辞に染まらないよう、大事故であれ大災害であれ、大量虐殺であれ、個別・具体の人生・いのちと向き合うようにしている。今年(2020年)はシャルロッテとメスキータの人生に触れ、考えるなかで、日本の終戦記念日を迎えた。
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