2020年12月30日水曜日

「避病院」という言葉

                                
 こういうご時世だから、感染症関係の本が目に入れば手に取る。国立病院機構埼玉病院精神科部長・金川英雄さんの『感染症と隔離の社会史――避病院の日本近代を読む』(青弓社、2020年)=写真=は、「避病院」という言葉に吸い寄せられるようにして、図書館から借りて読んだ。

避病院は今は死語だろうが、私が小学生になったころ、つまり昭和30(1955)年にはまだ親たちが使い、現にどこかにそういう施設があったように記憶する。阿武隈の山里の話だ。

 そのころの感染症(伝染病)といえば赤痢だった。「どこのだれが赤痢になった」「どこのだれがヒビョウインに入った」。ヒビョウインは、あとで「避病院」と書くと知ったが、子ども心にもなにか異様で、おどろおどろしい響きを持っていた。

 ふるさとの町史には、明治33(1900)年4月、避病院(伝染病隔離病舎)の管理に関する規定ができたことしか載っていない。いわき地域学會初代代表幹事・故里見庫男さんから恵贈にあずかった昭和13(1938)年5月発行の「町勢一覧」地図にも、避病院を含む病院の記載はない。当時、町には医者がいなかったのか、そんなことはあるまい。

 金川さんの本は小説や体験記録の解説としても読める。日本では明治に入ると、江戸時代末期からのコレラ流行を教訓に、全国各地に避病院がつくられる。尾崎紅葉の「青葡萄(あおぶどう)」には、コレラ対策に絡んで避病院が登場する。正宗白鳥の「避病院」は赤痢と避病院の話を扱っている。

正宗の小説の解説のなかで鳥取県湯梨浜町のウェブサイトの記事が出てくる。――昭和30年5月、倉吉市の県立厚生病院の敷地内に周辺市町村組合立の伝染病院が新築されたため、各町村の隔離病院は順次廃止された――。避病院は昭和30年代にはまだ存在していた。阿武隈の山里でも廃止されるとすれば、同じような事情からだったろう。

正宗の「避病院」では、近くの村で感染症が発生し、予防のために祭りの神輿(みこし)が禁止される場面が出てくる(コロナ禍の現代も同じ。イベントの中止や延期、規模縮小などが続く)。その分、飲み食いや賭け事はいつもより盛んになる。あっちでもこっちでも禁を犯す。結果的に、村に感染症が入り込む。

この本を読むことで、私自身の「ヒビョウイン」のイメージが変わったわけではない。が、避病院の役割と実際を知ることができた。さらに、本書とは関係ないが、幼いながらに抱いていたおどろおどろしいイメージは、石牟礼道子『椿の海の記』の、こんな記述とも重なることを検索してわかった。

「ひとたび疫病にでもかかって町のはずれのこの避病院に送りやられたが最後、身内といえどもこわがって近寄らず、枕元には狐女(きつねじょ)か夢魔が出て来るばかりだったから、避病院からそのまた先の土手を、渚へつながる火葬場送りとなることはきまっていた」

私が子どものころ、阿武隈の山里ではまだ土葬だった。火葬場はないが、避病院は水俣と同様、町のはずれにあったにちがいない。しかし、避病院が機能したからこそ、町は滅びずに今も残っている。コロナをはじめとする感染症の怖さを知るにつけて、そう思う。

そして、これはまったくの蛇足――。精神科のドクターはよく本を書く。「あとがき」にこうあった。「史料を集めるのは、砂金取りに似ている。十何万冊の本を読んだが、根気よく文章をさらっているとたまにきらりと光るものを見つける。それらを丹念に集めると一冊の本になる。ストレスがたまると本を書き、医療現場一筋で四十年がたった」。なるほど、精神科医のストレス解消法は本を書くことだったか。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

団塊世代です。人家から離れた松林のなかに「ヒビョウトウ」がありました。「避病院」と同じものかと。近くにいってはいけないと親からいわれていました。どういう文字を書くのかと思っていました。今回、納得です。