2020年12月8日火曜日

小説『老乱』に学ぶ

           
 ふだんは穏やかな人が、ある日突然、キツネが憑(つ)いたように激しい言葉を吐く。「〇×を持って行った」「〇×がなくなった」……。身に覚えのない攻撃を受けた人間は、あきれ、傷つき、怒り、悲しくなる。他人であれば、長い付き合いが終わる。肉親であれば、新たな葛藤が生まれる。

そんな事例を見聞きするにつけ、あすはわが身、という思いが膨らむ。認知症を知らないといけない。知れば少しは対応の仕方が変わるだろう。認知症になったとしても、最初のうちならどのレベルにあるかを認識できるだろう。どちらの側に身を置いたとしても、“敵”の正体を知っておきたい。

前にも書いたことだが――。毎月、移動図書館がわが家の隣にやって来る。カミサンが選ぶ本は、当然ながら私とは違う。老い・料理・キルティング・小説……。自分では選ばないからこそ、読んでみたくなる本がたまにある。

認知症の専門家が認知症になってわかったことを書いた長いタイトルの本、長谷川和夫『ボクはやっと認知症のことがわかった 自らも認知症になった専門医、日本人に伝えたい遺言』(KADOKAWA、2019年)は、そうして読んだ。

医師で作家の久坂部羊さんの『老乱』(朝日新聞出版、2016年)=写真=は、図書館から借りた本(徳永圭子『暗がりで本を読む』本の雑誌社)で知った。図書館にあるので、さっそく借りて読んだ。認知症を発症して亡くなる老父と息子夫婦を軸に、医師、孫、看護師たちとのやりとりを描く。

世話をする側と認知症の老父の心理とが、合わせ鏡のように交互に描写される。たとえば、息子の妻が老父の世話をする。老父はそれを、どこの誰だか知らない人間がなにかをしている――というふうに見る。老父の日記の記述も、次第に幼児のような思考・文字遣いに変わっていく。

作者が最も言いたいことは、しかしここ。かかりつけ医の言葉として出てくる。ある訪問診療をしている認知症者は重度だが、実に穏やかに暮らしている。介護しているのは息子の妻。舅(しゅうと)は粗相をしたり、夜中に歩きまわったりすることもあるが、お嫁さんは常にかいがいしく世話をしている。なぜそこまで優しくできるのかを聞くと――。

「お嫁さんはこんなふうに答えました。自分たちが若いころ、おじいちゃんにはずいぶん親切にしてもらったんです。いろんな面で助けられたし、支えになってもらいました。だから、今はその恩返しなんですと」

いくら重い認知症でも、自分が感謝されていることはわかる、敬意を払われていることも感じる。すると、「今の状態を壊さないようにしたいという本能が働く。お嫁さんを困らせる行動も自ずと減るというわけです。認知症ですから、ゼロにはなりませんが、無意識にブレーキがかかる。だから、良好な関係になるのです」。

恩返し、か――。それともう一つ、印象に残ったこと。認知症者への質問の仕方は、「答えの言葉をさがさなくてもいいように聞く」のだとか。認知症者に「『今日はどうやって来ましたか』と聞くと、答えられない人が多い。しかし、『車で来ましたか。電車で来ましたか』と聞くと『電車です』と答えられる」。これを「クローズドの質問」というそうだ。二者択一、「はい」か「いいえ」。個別・具体を心がける、ということだろう。

帯にこうあった。「老い衰える不安をかかえる老人、介護の負担でつぶれそうな家族。地獄のような日々から、やっとひと筋見えてきた親と子の幸せとは……」。どんな状況になろうと、相手に対する尊厳と敬愛を忘れない。それに尽きるようだ。

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