2020年12月13日日曜日

『帰れない山』を読む

           
 北イタリアの山岳地帯を舞台にした小説だという。キノコの話でも出てきたらもうけもの――そんな気持ちで、図書館から借りて読み始めた。前に紹介した小説『老乱』と同じく、徳永圭子『暗がりで本を読む』(本の雑誌社、2020年)で知った。パオロ・コニェッティ/関口英子訳『帰れない山』(新潮社、2018年)=写真。

裏表紙に「街の少年と山の少年/二人の人生があの山で再び交錯する」とある。それに続いて物語の内容が説明される。「美しく雄大で、ときに残酷なまでに厳しいアルプスの山々。少年は山での日々を通じて友に出会い、父の生き方を学び、真の大人へと成長してゆく」

ピエトロはミラノの街に住む少年。一家は夏、山岳地帯の村の別荘を借りて過ごす。山の少年ブルーノはピエトロと、山男でもあるピエトロの父親と深く交流する。2人の少年は大人になって再会し、山奥に家を建てる。物語の終わり、ブルーノは雪に埋まったその家で、突然の体調不良に見舞われ、そのまま凍死する。

作品を読むのは初めて、舞台ももちろん知らないのに、なぜか懐かしい感情がわいてくる。

毎週日曜日、夏井川渓谷の小集落にある隠居で過ごす。庭での土いじりにあきると森を巡る。滝を眺める。地元の人々と交流する。五官に響く谷のせせらぎ、春のアカヤシオの花、秋の紅葉。夜、イノシシが現れ、タヌキがうろつく。そこに、遠い昔の記憶が重なる。阿武隈の山並み、集落、吹雪、花々、キツネ、沢の流れ、星空……。

阿武隈高地の中央部、田村市常葉町と都路町にまたがる鎌倉岳(967メートル)の南東山麓。国道288号からは200メートルほど奥まったところに「ばっぱの家」があった。ポツンと一軒ある、かやぶきの「山の家」だ。小学校の春・夏・冬休みになると、バスで出かけた。祖母について周囲の山野を巡った。

 夜はいろりのそばにランプがつるされる。向かい山からはキツネの鳴き声。庭にある外風呂にはちょうちんをかざして入る。寝床にはあんどん。家のわきには池があった。三角の樋から沢水がとぎれることなく注いでいた――。

『帰れない山』を読みながら、無意識に舞台を阿武隈の山里と、夏井川渓谷の小集落に置き換えていた。

 こんな文章が出てくる。「その夏の日々、沢が僕の探検の舞台となった」。「ばっぱの家」に行くと、やはり近くの小流れや沢で遊んだ。

 成人したばかりのブルーノが一度、海を見たことがある。ピエトロが聞く。「海はどうだった」「大きな湖みたいなものだな」。阿武隈の少年たちも同じだった。まちで一番大きな溜池は「山田作の沼」。学校で学習発表会が開かれたときの、だれかのせりふ――。「海は山田作の沼より大きかった」

「それぞれの土地によって、しまわれている物語は異なる。そこへ帰るたびに、自分の物語を再読できる。そんな山は人生においてひとつしか存在せず、その山の前ではほかのどんな名峰も霞んでしまうのだ。たとえそれがヒマラヤ山脈であろうとも」

「ヒマラヤよりウラヤマ」といったのは、川内村の長福寺に墓のある辻まこと。「山」を「山里」に置き換えると、再読するための物語を秘めた場所は、私には「ばっぱの家」になる。その家も今はない。そんなことを思い浮かべながら読み終えた。ゆるぎない友情と、切ない幕切れと――その余韻が今も続いている。

0 件のコメント: