不要になった食器や本、衣類が届く。カミサンが使えるものと廃棄するものに分ける。使えるものは、それらを必要とするところへ届ける人が取りに来る。
東日本大震災後、津波・原発避難者を支援するための交流スペース「ぶらっと」ができた。それを手伝った。
わが家でも、店の一角を利用した地域図書館「かべや文庫」が、避難者と住民のお茶飲み場になった(「まちの交流サロン『まざり~な』」といって、市内各地にできた)。着の身着のままで避難した人たちには、食器や衣類が必要だった。そのためのリサイクルも行われた。
古着のリサイクルは震災前から続く。古本は換金して「ぶらっと」を運営した国際NGO、シャプラニール=市民による海外協力の会に寄付する。
私は調べものをするなかで、ちょくちょく図書館のホームページを開き、電子化された昔の新聞を読んでいる。それで、カミサンは届いた衣類などに古新聞がはさまっていると、必ず見せる。先日は昭和38(1963)年1月4日付と同55(1980)年1月27日付の朝日新聞が出てきた。
詩人の田村隆一は、「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」と書いた。その通りだった。今回読んだのは30年前どころか、57年前と40年前の古新聞だ。黄ばみ、茶色くなって、しわが寄っている。注意しないとすぐ破ける。
昭和38年1月4日といえば、私は中学2年生、まだ冬休み中のことだ。社会面に「八丈島に“音楽家の村”/東京の騒音をのがれて/山田耕筰老ら三氏/六日ケ原へ集団引越し」の見出しが躍る=写真。78歳の山田が発案し、38歳の作曲家團伊玖磨と41歳の指揮者森正が応じた。
山田耕筰とくれば、朝ドラ「エール」に登場した音楽界の大御所・小山田耕三(故志村けん)が思い浮かぶ。福島市出身の作曲家古関裕而が敬愛した作曲家だ。
それと、山田の弟子の團伊玖磨。随筆集『パイプのけむり』や草野心平の文章を読んだかして、2人の交流が頭にあった。古新聞を読んでいるうちに、八丈島・心平・食べ物といった語彙が交錯しはじめた。
移住の話がニュースになってから3年後――。昭和41(1966)年8月、心平は「團伊玖磨の招きで、檀一雄と八丈島樫立の團家に行く。四日ほど滞留。地酒『鬼ごろし』など飲む」。いわき市立草野心平記念文学館発行の図録「草野心平」(1998年)年譜に、そうある。それに先立つ7月16日、川内村で天山文庫の落成式が行われ、東京から「歴程」同人など約40人が村を訪れた。
心平は八丈島で「心平粥」(『パイプのけむり』では「草野粥」)をつくってふるまっている。
一方の昭和55年1月27日付は、「福島版」に長期連載「原発の現場」が載る。原発や火発のある双葉郡内に入ると、国道6号沿いにドライブインや飲食店が目立つようになる。特に、大熊町ではその数が増える。バー、スナック、建設業、弁当屋、下宿屋、床屋……。同町の「繁盛記①」だ。
私は当時、いわき民報の記者9年目で、いわき市役所担当だった。朝日のいわき支局長氏や記者たちと交流があり、同支局編『原発の現場――東電福島第一原発とその周辺』(朝日ソノラマ)が単行本になると、支局長氏から恵贈にあずかった。その原発が大震災時に事故を起こした。単行本は原発事故を考えるうえで欠かせない教材となった。
ついでながら、老いて花眼になった今、しみじみと思う。新聞活字がけし粒ほどに小さい。1行14字、1段ざっと90行。今は1行12字、1段70行ほどだから、読みやすくなった代わりに、各面に盛り込む情報量は減った。
欄外の日付も、昭和38年は「元号・西暦・月日」だったのが、同55年には「西暦・元号・月日」に変わっている。国際化に対応して西暦中心に切り替えた? 私は体に染みついたせいか、元号・西暦の順を崩さない。
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