2020年12月23日水曜日

「平凡パンチ」の編集者

        
 きのう(12月22日)の続き――『希林のコトダマ』(芸術新聞社、2020年)の著者は椎根和(しいね・やまと)さん。昭和17(1942)年、福島県生まれだという。私よりは6歳年上だ。若いときに「平凡パンチ」の編集者・記者をしている。ということは、彼の記事を読んでいたのかもしれない。

著書に『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社、2007年)がある。総合図書館にはほかに、原発事故に材を取った絵本『ウリンボー』(芸樹新聞社、2013年)と小説『フクシマの王子』(同、2011年)がある。3冊を借りて読んだ=写真。

「平凡パンンチ」は昭和39(1964)年4月に創刊された。中学生たちがなじんでいた芸能誌の「週刊平凡」や「週刊明星」とは違った、ファッションや風俗、女性のグラビアなどを扱った若者向けの週刊誌だった。

阿武隈の山里から浜通りの中心都市、平市(現いわき市平)の高専に入学し、寮に入った。それと前後して「平凡パンチ」が創刊された。流行に敏感な同級生がさっそく買い込んできたのを回し読みした記憶がある。そのころ10代後半だった「団塊の世代」をターゲットにした雑誌だそうだ。

 椎根記者が女性誌から「平凡パンチ」の編集者・記者に転じるのは創刊4年目という。私が19歳のころだ。同記者は三島由紀夫が割腹自殺するまでの3年間、三島担当の編集者だった。自分から「平凡パンチ」を買うことはなかったが、喫茶店かどこかで手に取り、三島の記事は欠かさず読んだ。半世紀がたった今、若い椎根記者にたぶらかされていたのだと、『平凡パンチの三島由紀夫』を読んで思う(自分の主観で三島を茶化す特集を組み、三島もそれを黙認した――そんなことを知った)。

 今年(2020年)の11月25日は三島の割腹自殺から50年の節目の日だった。50年前のこの日、私は朋友と2人、沖縄旅行の資金をためるため都内でアルバイトをしていた。夕方、新宿駅で事件を知り、駅の立ち売りスタンドで夕刊を買った。事件の衝撃は今も覚えている。

「週刊読書人」だったかのインタビューにこたえて、三島は「文学は生の原理、武士道は死の原理」といっていたのを覚えている。割腹自殺を知ったとき、「なぜ生の原理に従わなかったのか」と反発した。

 沖縄は沖縄で沸騰していた。三島事件からざっと1カ月後の12月20日、「コザ騒動」がおきた。パスポートを持って、朋友と沖縄本島を旅した。行き当たりばったりの素泊まりか民泊頼みで、2週間が過ぎるころには朋友がカメラを質入れするところまで窮した。

もう本土へ帰るしかない――そう決めて、コザ市(現沖縄市)から那覇市へ移動した夜のできごとだった。コザ市にとどまっているべきだったと悔やんだ。

 帰京し、さらに年が明けて平へ遊びに戻ったとき、後輩のバイクに同乗して事故に遭い、前方に吹っ飛んだ。幸い一回転して着地し、手のひらをすりむいただけで済んだが、健康保険証のない気ままな生活はそれで終わりにした。平にJターンして就職したあとは、「生の原理」に従って生きてきた、といえばいえるか。

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