家庭菜園でいうと、キュウリやナスは夏野菜、白菜や大根は冬野菜だ。夏でも冬でも取れるときには取れる。友人、知人から白菜が、大根が届く。冬のお福分けだ。
先日、三和町下永井の「いこいの学校 長居小」で買った白菜とお福分けの白菜を漬けた=写真上1。いい具合に、学校の後輩から2回目のユズが届いた。いつもだと、漬けて5日目あたりから食べるのだが、今回はタッパーに移した前の白菜漬けが冷蔵庫に残っている。それで最初の新・白菜漬けは10日近くたってから口にした。
上がった水の表面にはやはり、白く産膜酵母が張っている。白菜自体の乳酸発酵も少しずつ進んでいる。浅漬けの新鮮な歯ざわりと甘みのあとに、酸味が舌先を刺すようにからみついてきた。
こうなると酸味は日を追って増す。タッパーに移して冷蔵庫に入れないといけないのだが、夫婦2人と義弟の3人では食べきれない。漬けたら“古漬け”にならないうちに、早めにお福分けをする――。そんなことも考えないといけないようだ。
もっとも、味の好みは人それぞれだ。私は新鮮な浅漬け派だが、カミサンはそうでもない、古漬け派といってよい。酸味の強い古漬けが好きな若い仲間もいる。古漬けの白菜を細かく刻んで納豆に混ぜたものは、ご飯だけでなく、酒のつまみになる。それなら私も食べる。
お福分けは野菜に限らない。久之浜の知人からは水揚げされたばかりの魚が届いた。こちらは、魚の料理が上手な近所の奥さんに回した。アジはから揚げになって戻ってきた=写真上2。お福分けがいつのまにか食べやすいように加工され、調理されて、近所を行き来する。ちょうど晩酌どきだったので、いい酒のさかなになった。
別の日には、白菜と丸大根、また別の日には長大根が届いた。こうなると、カミサンも調理法を工夫しないといけない。おろしにする。千切りにしたのを、ドレッシングのサラダにする。長い時間をかけてやわらかくした煮物も出る。
私が小さいころは山里の商家でも家の裏などで野菜をつくり、卵を採るために鶏を飼っていた。近所でお福分けが行き交った。それが貧しい食卓を温かいものにした。
少なくとも高度経済成長期以前の生活文化は、地方では『第三の波』の著者、アルビン・トフラーがいう「プロシューマー」(生産消費者)が基本だった。「コンシューマー」(消費者)であって「プロデューサー」(生産者)。経済が小さい分、消費者であっても家族や自分のために生産する、そういう循環型の地域社会が形成されていた。
その後、地方へも都市化・工業化の波が及び、自然の収奪へと突き進んでいく。その結果が地球温暖化となり、「地域温暖化」となって、今、自分たちの足元をおびやかしている。
国は「新しい生活様式を」という。が、新しいことではなくて「本来の生活様式を」と、私はつぶやいてみる。そのひとつがローカルもローカル、近所同士でお福分けの渦をつくることなのだ、と。
漬物の話に戻る。糠床は先日、冬眠させた。キュウリの古漬けは手つかずのままだ。白菜が漬かるまではキュウリの古漬けでつなぐ。そうもくろんで、半分は自産、半分はお福分けを利用して夏につくっておいたのだが、まだ食べずにいる。それも組み合わせておかずに変化をもたせるとするか。
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