あす(3月11日)は、東日本大震災から満10年の節目の日だ。活字メディアは2月から、テレビも3月に入ると特番を放送するようになった。
日曜日(3月7日)は、午後2時の福島ローカル・TUF「2021現在地~あの日から10年」をはじめ、夜7時にBS1スペシャル「新3・11万葉集 詠み人知らずたちの10年」、引き続き「双葉から遠く離れて10年 全町避難は続く」、同9時からは地デジのNHKスペシャル「ドラマ
星影のワルツ」を見た。久しぶりに夜更かしした。
「新3・11万葉集」に、いわきの昌平高校文芸部の生徒たちが登場した。なかにこんな作品を詠んだ子がいる。「震災のことを/取材で話すとき感じる/自分ではない自分」=写真。
生徒は今17歳だとしたら、被災したときは7歳。私もまた、小2のときに取材を受けて、「自分ではない自分」を感じながら、内心とは違う答えを口にした経験がある。「おんなじだ。子どもは取材を受けると、自分ではない自分が話しだす。質問に合わせて『いい答え』を言ってしまう」
65年前の昭和31(1956)年4月17日夜、阿武隈高地にある常葉町(現田村市常葉町)が大火事に見舞われた。
家で夕ご飯を食べようとしていた矢先、火事を告げるサイレンが鳴った。東西に延びる通りで人声がする。その声がだんだん大きくなる。外へ出ると、西空が真っ赤に染まっていた。火の粉が強風にあおられて、屋根すれすれに飛んで来る。戦争映画で見た艦砲射撃のようだ。そうこうしているうちに紅蓮の炎が天を衝(つ)き、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。
私はあわててランドセルを背負い、家の前の電信柱によりかかっていた。すると、近所のおばさんが大声で私を呼び、何人かと一緒に裏山の畑へ避難した。
わずか5時間で住家・非住家約500棟が焼失した。一夜明けると、わが家を含めて見慣れた家並みは灰になっていた。
一緒に避難した同級生と2人、早朝の焼け野原に立った。消防団員だった父親が焼け跡で何やらやっていた。と、そのとき、声がかった。「坊やのおうちはどこ?」。父親がそこにいるから、「あそこ」と言えばすむのだが、もう一人の自分が「知らない」と答えていた。
すると、「動かないで」。その人が言った。写真に撮られた。あとで小名浜の叔父から、「お家を探す子ら」というタイトルで写真が産経新聞に載ったことを教えられた。私はウソをついたのだろうか――。新聞記者になる前も、なった後も、時折、このときのやりとりを思い出しては自問した。
7歳の大火事では泣かなかった「こころ」も、54歳のときの阪神・淡路大震災では泣いた。泣くのに47年かかった。
つまり、こういうことだ。子どもたちは大人のようには泣けない。言葉に出せない分、心を封印してしまう。ときには本心と違うことを言う。「自分ではない自分」が棲(す)んでいるのだ。
大火事の一夜を境にして、それぞれの家の暮らし向きが変わった。それぞれの人間の生き方・考え方が変わった、あるいはいやおうなく定まった。
東日本大震災でも事情は同じだろう。子どもたちが大人になって、自分の人生を振り返るころ、大震災を境になにかが変わったことを知るはずである。
「自分ではない自分」。それを自覚する少女の短歌に刺激されて、つい7歳の「自分ではない自分」に会いに行ったのだった。
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