「石狩挽歌」の歌碑が、ふるさと小樽に建つことになり、場所の確認のために招かれる。破滅的で疫病神のような生き方をした兄を回想しながら、「兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう」と海に向かって叫ぶところで小説は終わる。
若いころ、つるんで飲み歩いた1歳年上の詩人がいた。独身時代は、同じアパートに住んでいた。そのころ、面識はなかった。
今はない草野美術ホールが「絵描きの梁山泊」のような様相を呈し始めたころだ。喫茶店「珈琲門」がオープンすると、同ホールに出入りしていた絵描きたちが常連になる。文学や映像を手がける若い連中もこれに加わる。飲むと田町か白銀(平の飲み屋街)へ繰り出した。
そんな人間の渦のなかで詩人と知り合った。酔うと、北原ミレイの「石狩挽歌」を歌った。
「石狩挽歌」がはやったのは昭和50(1975)年。まだ吉田拓郎や井上陽水らシンガー・ソング・ライターの歌が全盛のころだ。なぜミレイなのか、なぜ「海猫(ごめ)」や「ニシン」なのか。時代の流行への抵抗として、あえて演歌にのめりこんでいるのではないか――私はそう彼の内面を想像してみた。むろん、ほんとうのところはわからない。彼はそれから上京し、詩集を2冊ほど出したあと、自死した。
彼のことを思い出すと、やはり一緒に飲み歩いた3歳下の詩人粥塚伯正(みちまさ)クンのことが思い浮かぶ。去年(2020年)夏、コロナ禍のなか、急性心筋梗塞で亡くなった。
その4カ月前の3月8日、いわき市立草野心平記念文学館で詩人吉増剛造氏の講演会が企画されていたが、これは吉増氏と交流のある粥塚クンがいたからこそで、粥塚クン自身も「聞き手」として参加することになっていた。コロナ禍で講演会は宙に浮いたままになっていた。
先日、文学館から封書が届いた。なかに吉増剛造氏の講演会のチラシが入っていた=写真上。聞き手は粥塚クンが参加していた詩誌「a’s」=写真下(粥塚クンの追悼号、私は弔辞を載せた)=の主宰者佐藤洋子さん(仙台)。粥塚クンの遺志を継ぐかたちで講演会が開かれるのだから、彼も本望だろう。
増毛町は小樽の北東にある港町で、断崖前壁の雄冬岬にトンネルができるまでは、海上を行き来するしかなかった。しかし、町の観光情報では、今から260年以上前の宝暦年間に漁場が開かれて以来、ニシンのまちとして栄華を極めた。昭和30年ごろを境に、ニシンが来なくなって漁は衰退する。
ある日、ストリートビューを利用して小樽市の東方、石狩市から増毛町へと日本海に面した国道231号を“ドライブ”した。なんだかオホーツク海に面したサハリン(樺太)の海岸道路を走っているような錯覚にとらわれた。北の海だからだろうか。
「石狩挽歌」は、小説『兄弟』とテレビの特番とストリートビューの海を通して、まさに「中西家の悲しいテーマソング」であることを“痛感”した。
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