10年もたてば記憶の細部は霧に包まれる。だからこそ正確な記録が必要になる。東日本大震災と原発事故が起きた「あのとき」、そして「あのとき」からの10年――。個別・具体の話は記録に頼るしかないが、脳髄に突き刺さったままの揺れとテレビの画像はきのうのことのようによみがえる。
なかでもNHKの大津波の空撮(生中継)には息をのみ、福島中央テレビの東京電力福島第一原発建屋爆発事故の録画には、「この世の終わり」を覚悟した。フラッシュバックというほどではないが、3・11を振り返ると必ずこの映像があらわれる。
わが家は夏井川河口から5キロほど内陸にある。津波の被害は免れた。震度6弱で「大規模半壊」に近い「半壊」の判定を受けた。災害救助法に基づく住宅の応急修理制度を利用して、雨漏りをした2階の物干し場を直した。それ以外はほぼ「あのとき」のままだ。
夏井川渓谷の隠居は、さいわい大きな被害はなかった。が、上の庭と下の庭を仕切る石垣が一部崩れた。そこをブルーシートで覆ったまま10年が過ぎる=写真。
崩れた石垣は、わが家の「震災遺構」そのものだ。当時のブログ(2011年3月30日「夏井川渓谷へ」)を再掲(抜粋)して、自分の3・11を振り返る。
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大地震から半月余がたち、夏井川渓谷の隠居のことが気になり始めた。3月29日朝、生ごみの入った容器を車に積んで向かったら、渓谷の入り口・小川の高崎で通行止めの看板にさえぎられた。
高崎から先には行けない。しかし、う回路がある。いったん二ツ箭山のふもとを巻くようにして国道399号を進み、横川から「母成(ぼなり)林道」に入って江田に出る、いつもの「災害ルート」だ。この15年余の間に2回は利用している。
399号の入り口で交通警察隊が検問をしていた。福島第一原発から20キロ圏内への立ち入りを規制するのが目的だ。他県から応援に来たようだった。「江田の先に家がある」といっても、「江田はどこか」。う回路の話をすると了解して通してくれた。
江田から上流の渓谷は、そんなに目立った変化はなかった。が、牛小川の一つ手前、椚平の対岸は至る所で落石があったのだろう。縦に赤みがかった筋が急斜面にいくつも入っていた。通行止めの原因は磐越東線・高崎踏切から1キロ先という表示だったから、おそらく落石除けのロックシェッドがあるあたりで大規模な崩落が起きたに違いない。
としたら、県道の復旧には相当の時間がかかる。近くを走る磐越東線も当分だめだろう。「完全通行止め」という看板はそのへんのことも含めて言っているのかもしれない。
それより、わが隠居だ。瓦屋根を見る。無事だった。いちだん下の空き地とは石垣で区別されている。その一部が崩れていた。
室内は? 本は無事。カセットラジオも落下していなかった。安定の悪いボックスの上に載せておいた時計とそのボックスが落下し、台所のこまごましたものが散乱していたほかは、電灯のかさがずれたり、雨戸の内かぎがゆがんではずれなくなったりしただけで、わりと手早く片付けがすんだ。崩れた石垣にはブルーシートをかけた。
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渓谷の落石現場は想定していたところだった。ワイヤネットが落石を受け止めた。落石が除去されたあとも通行止めは解除されなかったが、地元住民は自己責任で通行していることを、間もなく知った。磐越東線のいわき―小野新町間は4月15日に再開された。ちょうど渓谷のアカヤシオ(イワツツジ)が満開になっていた。この年、アカヤシオの花見客はなかった。
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