日テレ系列のFCTがスクープした1Fの「白い爆発」と「黒い爆発」の映像。なかでも「黒い爆発」の正体は――。あれから10年の節目の報道で同じ日テレが特集した=写真。「高温になった格納容器内で、ケーブルカバーなどから可燃性ガスが発生して建屋内にもれ、燃えながら上昇した可能性がある」ということだった。
「黒い爆発」の正体を知りたい。ずっとそう思ってきた。なぜFCTが爆発をスクープできたのかはほどなくわかったが、キー局の日テレからの放送が遅れたことには疑問もあった。2年前の3月8日に「白い爆発」と「黒い爆発」を拙ブログで取り上げていた。以下はその抜粋。
※
フェイスブックからのリンクで<「原発爆発」映像が呼び覚ます「3・11」の実相>というタイトルの記事を読んだ。筆者は日本テレビの経済部長・政治部長・解説主幹などを歴任した倉沢治雄さん。
系列のFCTが東電の福島第一原発(1F)の建屋爆発事故をテレビ局で唯一、映像にとらえた。なぜFCTは爆発の映像を撮ることができたのか。そしてローカルレベル、つまり福島県内では視聴者がリアルタイムで爆発映像を見ることができたが、キー局の日本テレビはそれを放送するまでに1時間以上かかったのはなぜか。
当時、その理由を知りたくて情報を探った人間としては、テレビ局の「中の人」が「中の人」の話を聞いてまとめたこの記事で、ようやく腑に落ちた。「世紀のスクープ」は次のような経緯があって生まれた。
平成12(2000)年、1Fから南西約17キロの楢葉町の山中にある中継塔にアナログカメラを設置する。同21(2009)年にはさらに、高画質のデジタルカメラを1Fから2.3キロ、2Fから1.7キロの沿岸部に取り付ける。ところが、「当面バックアップ用に」と残しておいた山中のカメラをのぞいて、放送局のカメラがすべて大地震による停電の影響で使えなくなった。
山中のカメラは、内陸の送電網から電源が引かれていた。事故を起こすとすれば2Fではなく古い1Fの方という判断から、メンテナンス後も必ず1Fに向くようにしていた。そもそもカメラは「前年(1999年)に起きたJCOの臨界事故」を教訓に、「原発立地県のテレビ局として、常にウォッチする必要がある」という考えから設置された。これらが積み重なって水素爆発の瞬間を撮影することができた。
しかし、キー局が最初の水素爆発を放送したのは1時間余りたった午後4時49分だった。「中の人」の文章で理由がわかった。報道局幹部が「そのまま放送するとパニックが起きるとためらった」。解説のためにテレビ局に来た専門家も、「爆破弁の開放では」と事態を矮小化した。
震災当時、いわきから30キロ先にある1Fに関しては、テレビで情報をとるしかなかった。初回は「白い爆発」だった。ところが、2回目は「黒い爆発」だ。FCTの14日の映像を見て、思わず「終わった」、胸の底からつぶやきがもれた。小学校2年のときに町が大火事になって、避難した。人生の終わりの時期に「また避難か」と愕然とした。
いわき市が震災時の情報入手などに関する市民アンケートを取った。避難に関しては「3月15日」がピークだった。「黒い爆発」がきっかけだったと思われる。なにはともあれ、あのときのFCTの仕事にはあらためて敬意を表したいと思う。
※
きのう(3月14日)、午前11時1分。置き時計で時間を確かめた瞬間、10年前のあの「黒い爆発」がよみがえって鳥肌が立った。
0 件のコメント:
コメントを投稿