食べきれないので、近所の知り合いや友人など計6人に分けた。粒が大きい。食べるとさっぱりした甘さが口内に広がる。イチゴでも高級品の部類に入るのではないか(理由は単純、これだけ大粒のイチゴを食べたことがないので)。
聞けば、「風が吹けば桶屋が儲かる」の反対で、「コロナがはやれば生産者が泣く」だった。「お福分け」ということばは使えない。
コロナで巣ごもりが続く。イチゴを必要としているのは、最終的には消費者だが、そこへ行く前にケーキ屋がある、カフェがある、スーパー・果物屋がある。ところが、コロナ禍で買ったり、食べたりする機会が減った。生産~流通~消費のサイクルが細くなった。出荷が減って在庫を抱えるはめになったため、回りまわってイチゴがわが家に届いた、ということなのだろう。
ジャムにすればいい、という話ではない。たぶん、全産業がコロナの影響を受けている。コロナに追い詰められている。
巣ごもりだって長引くと社会の動きについていけなくなる。行政区の役員をしているので、地域とはわりと密接にかかわっている方だが、それでもコロナ禍以降、行事の中止・延期が相次いで人と接する機会が減った。
身近なところでは、地元の小学校の卒業式や入学式、学習発表会がある。去年(2020年)は、来賓の招待はなかった。今年もない。
3月12日の中学校の卒業式はニュースで知った(10年前は3月11日だった)。県立高校の合格発表は3月15日。これも夕刊で知った。
知人が中学2年生の娘さんとその友達を連れて遊びに来た。それでやっと私立、県立その他、いわき周辺の学校の様子がわかった。
そうやって社会の動きに追いつく。その意味では、いわき駅前にある総合図書館との往復時間も、社会や自然をのぞく大きな窓になる。
夏井川の河川敷で土砂除去工事が行われている、老朽家屋が解体されて更地になった、園芸ハウスには棚に鉢物のない遊休棟もある(これもコロナで生産を縮小したから?)……。見聞きしたものが「今」を考える材料になる。
巣ごもりを徹底すれば社会と断絶する。そうならないよう、どうバランスを取るか。たまたま遊びに来た中学生が「これから映画を見に行く」という。あとで、ネットでその映画を検索した。「花束みたいな恋をした」。なるほど、ジイバアには縁遠い物語だが、中学生には最も興味深いテーマなのだろう。こうしてネットで情報を取るのもありだな、とは思う。
イチゴは、もらってはうれしいが、生産者がちゃんと笑っていられるようでないと困る。巣ごもりも社会の風が入って来るようにしておかないと息が詰まる。春になったことだし、近所を回るくらいの「息抜き散歩」を始めるか。今度薬をもらいに行ったとき、ドクターに聞いてみよう。
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