きょう(3月11日)は、やはり特別な日だ。朝起きるとすぐ、海の方を向いて合掌した。それからこたつに入り、テレビの後ろに張ってある2011年3月のカレンダーに目をやった。
カレンダーの下部には、中1と小5の孫が所属しているサッカークラブの新聞記事、新しい河川洪水ハザードマップ、令和元年東日本台風で決壊した夏井川水系の地図が、テープと画鋲(がびょう)で止めてある=写真。カレンダーは「あのとき」を忘れないための戒めであり、地図と新聞は「これから」を生ききるための希望と祈りでもある。
同時に、あのとき以上の大災害が起こらない、という保証はない。戒めと希望と祈りの底には、自然への畏れもまた根づいている。そのことをあらためて思った。
東日本大震災と原発事故がおきたとき、孫は3歳と1歳だった。10年たった今、上の孫はすでにカミサンの背丈を超えた。この間に自然災害も相次いだ。今は新型コロナウイルスが世界を震撼(しんかん)させている。
あのとき、「人類と世界が初めて経験する複合災害だ」と、半分絶望しながら思った。沿岸部を大津波が襲い、多くの命が失われた。原発では3基でメルトダウンが起き、16万人が避難した。
起きる・働く・日が暮れる・眠る・また起きる――。当たり前にあった日常がもろくも崩れ去った。あのときまでは、何事もなく一日がめぐり、あしたもまた同じ一日がめぐってくる、と信じて疑わなかった。そんな日常を人はときに「平々凡々」と形容した。しかし、無事な日々こそが実は奇跡そのものなのだということを痛感した。
巨大地震の直後、ブログを書いてアップした。ブログは毎日1回、晩酌のあとに下書きをつくって、翌朝、修正してからアップする。が、このときだけは初めて、リアルタイムで震災の状況を発信した。この10年の「原点」ともいうべき記録だ。
「文明の災禍」(哲学者内山節)を経験して、生きていくうえで大事なものはなにか、どんな生き方をしたらいいのか、を自問し続けた10年でもあった。これからもそれは変わらない。原点のブログを再掲してこの10年を振り返り、これからの余生を生ききる糧とする。
※
3月11日午後2時46分ごろ、大地が揺れた。揺れて、波うって、今にも大地に亀裂が入るのではないか、と思われるほどの大地震になった。
茶の間で横になって本を読んでいた。だんだん揺れが大きくなった。<ただごとではない>。庭に飛び出して車の屋根に手を置いた。車がぼんぼんとびはね、前後する。二本の足では立っていられない。
1分、いやそれ以上、揺れていたのは何分だろう。揺れが収まった時点で家に入る。本棚が倒れ、食器が落ち、テレビが倒れている。2階も足の踏み場がない。
ここは、いわき市平中神谷地内。カメラを手に家の前の道路に出る。ちょうど小学生の下校時間だ。低学年の女の子が隣の駐車場にぺたりと座り込んで泣いている。石のかけらが頭にぶつかったという男の子がいた。見ると、歩道そば、民家の石塀が崩れて歩道をふさいでいた。このかけらが頭に当たったのだという。
となりは元コンビニ。駐車場が広い。子どもたちはそこにひとかたまりになって、大人になだめられていた。ざっと見たかぎりでは、子どもたちは無事だった。近隣住民にもけが人などはいなかったようだ。地震からおよそ1時間たつが、とぎれることなく余震が続いている。津波が心配だ。
※翌12日朝、つまり14時間後のブログでは、最後に「ただただ原発が怖い」と書いた。その通りの災禍になった。
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