このごろ、よく思い出す詩がある。まど・みちおさんの「トンチンカン夫婦」だ。103歳で出した詩集『百歳日記』(NHK出版生活人新書)=写真=のなかに収められている。2014年2月28日に104歳で亡くなったとき、一部を引用しながら、ユーモラスなまどさんの一面を紹介した。今回は全篇を。
満91歳のボケじじいの私と
満84歳のボケばばあの女房とはこの頃
毎日競争でトンチンカンをやり合っている
私が片足に2枚かさねてはいたまま
もう片足の靴下が見つからないと騒ぐと
彼女は米も入れてない炊飯器に
スイッチを入れてごはんですようと私をよぶ
おかげでさくばくたる老夫婦の暮らしに
笑いはたえずこれぞ天の恵みと
図にのって二人ははしゃぎ
明日はまたどんな珍しいトンチンカンを
お恵みいただけるかと胸ふくらませている
厚かましくも天まで仰ぎ見て……
私ら夫婦も、炊飯器に米と水は入っているがスイッチが入っていなかったり、「イグアスの滝」を「イグアナの滝」と言い間違えたりするトンチンカンが多くなった。
しかし、人生の大先輩のように、トンチンカンを楽しむところまではまだいかない。笑いは確かに絶えないが、それはトンチンカンをごまかすためだ。内心はやはり、おたがいの“ボケ度”を測っているところがある――まどさんを追悼しながら、そんなことを書いた。
それから7年。古いトンチンカンのほかに新しいトンチンカンが増えた。いよいよトンチンカンの日常を楽しむしかない、と覚悟するときがきた。
車が走り出して少したってから、「ストーブの火を消したかしら」。1分後なら1キロ、3分後なら3キロは家から離れている。こうなったらとにかく戻って確かめるしかない。
外出するには、こたつとヒーター・石油ストーブを消す→電気を消す→カギを締める――このルーティンを体は覚えているはずだが、そして実際には夫婦のどちらかが消しているのだが、そのへんの記憶がそろってあいまいになっている(どこかで相手に依存しているのが一因だろう)。
駅前再開発ビル(ラトブ)の地下駐車場で、図書館で駐車券にパンチを入れるのを忘れたために、「2時間無料」分まで料金を払う羽目になったのも、ルーティンと脳髄が連動しなかったからだ。
先日、歯医者へ行くカミサンのアッシー君をした。図書館を待ち合わせ場所にした。今度はちゃんと駐車券にパンチを入れた。プリン体ゼロの焼酎「れんと」も買った。ラトブの駐車場から出ようとすると、駐車券がすぐ吐き出された。「今度はなに?」「駐車券を逆に差し込んでしまった」。助手席で大笑いが起きた。
やはり、なにか一つ足りないか抜けるか、するようになってきたらしい。まずはそれを自覚することだろう。
会議場所を間違う(「第3委員会室」を「3階会議室」と思い込んでしまった。同じ建物の中だったので、すぐ「第3委員会室」へ行くことができた)。これは半分、ぼんやりした老眼で案内状を読んだせいだ。
複数の用事もこなしきれなくなった。ガソリンスタンドで灯油を買ったあと、コンビニでコピーすること――。行きはしっかり頭に入っていたのが、灯油を買ったとたん、コンビニを通り過ぎてしまった。家に着く寸前に気づいて戻るといったことが、確かに増えた。「年寄り半日仕事」は、正確にいえば「年寄り半日一仕事(ひとしごと)」なのかもしれない。
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