2021年3月6日土曜日

勿来災害ボラセン開設前後

                     
 10年前の「あのとき」、いわき市内では早い時期に勿来地区で災害ボランティアセンターが開設された。シャプラニール=市民による海外協力の会も事務局入りし、ボランティアとニーズのマッチングなどに協力した。

 いわき民報が「震災10年――未来へのメッセージ」と題して、関係者へのインタビュー記事を連載している。きのう(3月5日)は勿来災害ボラセン立ち上げのリーダー、舘敬さんを取り上げた=写真上。

支援活動の原点は「震災翌日、岩間海岸で目の当たりにした昨日までと異なる光景に衝撃を受けた」ことだった。記事に出てくるこの一文に、10年前(3・11からおよそ半月後)、シャプラのスタッフを案内がてら、舘さんと再会したときの様子がよみがえる。

彼と別れるときにこう言われた。「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」。シャプラのスタッフと海岸道路を通り、想像を絶する惨状に言葉を失った=写真下。

2011年3月29日付拙ブログ「シャプラが来た」(抜粋)を再掲する。ボラセン立ち上げ前の様子と舘さんを突き動かしていた思いが、私のなかでつながった。

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日曜日の27日午前、わが家にNGOの「シャプラニール=市民による海外協力の会」の副代表理事、事務局長、国内活動グループチーフの3人がやって来た。野菜の差し入れがありがたかった。カミサンがシャプラのいわき連絡会を引き受けている。いわきでの中期的な支援活動を考えているという。

19日、北茨城市に入って災害ボランティアの活動を始めた。ボランティアが集まってきたので、次はいわきへ――いわき市の「うつくしまNPOネットワーク」と連携し、22、23日と避難所への救援物資運搬活動を展開した。

北茨城からいわきへ活動拠点を移したのは、「原発事故」でいわきへのボランティアの足が止まっているからだ。短期から中期へ――次の戦略が必要になっている、そんな判断もある。

シャプラとしてなにができるか。いわき市社会福祉協議会の常務理事に会い、市市民協働課長のアドバイスを受けて、いわき市南部で復興のための活動を始めつつある「勿来ひと・まち未来会議」のリーダーに会いに行くことにした。旧知の人間だが、ケータイの番号などは知らない。

ここは市勿来支所へ駆けつけ、支所長の知恵を借りるに限る。支所長と情報交換をしているうちに、地震・津波の災害現場を見て回った副市長が偶然、支所長室にやってきた。市のナンバー2の話は、シャプラニールが何をしたらいいか、大きな参考材料になった。

やがて「未来会議」のリーダーとも連絡が取れ、津波被害に遭った海岸部で落ち合った。シャプラの3人はいったん東京へ帰り、「未来会議」のリーダーと具体的な支援計画を練ることになった。

リーダーが「帰りに岩間と小浜を見て行ってほしい」という。大津波で壊滅的な被害に見舞われたところだ。道はと聞くと、「生活道路」だから立ち入り禁止にはなっていない。

被災地に踏み込んで息をのんだ。分厚いコンクリートの堤防が破壊され、押し流された。堤防・道路・民家とつらなる海辺の風景は消え、大地がえぐられ、むき出しになっていた。小浜は海側の家並みが壊れて海がざっくり見えるではないか。

そのあと、小名浜、永崎、中ノ作、江名と回って平へ戻った。超現実的な風景が延々と続いていた。あらためて被害の甚大さを思った。

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