明治のコレラ対策については、2月19日付ブログ「明治28年のコレラ鎮め」で紹介した。そのあとも『いわき市史』を読んでいたら、大正時代のコレラ発生に関する文章(『平町会議録「大正6年度事務報告」』からの引用)が目に留まった=写真。
大正11(1922)年9月、横浜でコレラが発生した。10月に入ると千葉・東京・茨城県で、4日には小名浜町で発生した。平町は注意喚起の印刷物を各戸に配り、平停車場(現いわき駅)と海岸に通じる路線に臨時検疫所を設けた。通行者には薬品による手洗いをさせ、列車から降りた客は医師が観察し、旅行する町民や労働者には予防注射をした。その結果、一人も患者を出すことがなかった――。
この文献も含めて大正時代ごろから、現代に生きる人間の記憶と“接続”するものを感じるようになった。たぶん、われわれの親世代が生まれた時代だからだろう。
物心づいたころから覚えている「避病院」、人によっては「死病院」とまちがって記憶している伝染病の隔離病舎だが、大正時代の平町の伝染病対策を知って、いろいろ疑問が解けた。
「常設の病舎を設けていたのは平町だけで、その他の村は発生のたびごとに仮隔離病舎を建設した」。なるほど、財政規模の大きい平町だからこそ「常設」が可能だった、ということか。
さらに、こうある。平町には「専門の伝染病舎は2棟設置されていた(明治28年8月1棟、大正6年2月1棟建設、所在地旧平町六人町)。この病舎は伝染病が発生していない時は留守番のみで閉鎖されていたが、伝染病発生に応じて開設され、医師・看護婦が派遣された」。大正9(1920)~11年には伝染病が蔓延し、年間を通じて開院されていたという。
明治28(1895)年といえば、6月、小名浜に入港した汽船にコレラが発生し、磐城衛生会はコレラ予防心得を1万枚印刷して配布した(『いわき市史 第6巻 文化』編)。
さらに旧暦7月5日、江名・豊間・薄磯・沼之内まで「虎列刺」(コレラ)が蔓延したため、沼ノ内に隣接する平・下高久地区では大字の有志が発起人になり、鎮火祭式と大般若経転読会を執り行って大字内の安全を祈っている。
この2件の出来事と平町の最初の隔離病舎が建設された時期とが重なる。大正6(1917)年の増設もなんらかの伝染病の発生と関係しているのではないか。
日本ではこれまで、3回にわたって市町村合併が推進された。「明治の大合併」、「昭和の大合併」、そして最近の「平成の大合併」だ。自治体は規模を拡大しながら財政の効率化を図ってきた。
しかし、それが十分ではない大正~昭和時代、小さな自治体では隔離病舎の「常設」は夢物語だったのではないか。平町の実態から、周辺町村あるいは阿武隈の山里の隔離病舎がどう運営されていたのか、だいたい想像がついた。小さな町や村ではそのつど対応するしかなかったようだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿