2021年3月30日火曜日

友情の「翔陶」開眼式

        
 連絡がきて、緑川宏樹さん(1938~2010年)の墓の開眼式に出席した=写真上1。緑川さんは前衛陶芸家。画家の松田松雄さん1937~2001年)らと市民団体「いわき市民ギャラリー」を組織し、同じ画家の若松光一郎さん(1914~95年)を頭に、市立美術館建設運動をリードした。

 いわきの現代美術の淵源は、昭和40年代半ばから10年ほど開業した草野美術ホール(平・南町)だ。立て続けに個展・グループ展が開かれた。松田・緑川さんほかの画家や陶芸家、書家、新聞記者たちのたまり場でもあった。

そのころ、現いわき駅前に画廊喫茶「珈琲門」ができる。ここへも松田・緑川さんらが出入りした。その談論と熱気から、現代美術を収集の柱とする市立美術館オープンへとつながる市民運動が生まれた。

 松田さんはその後、原因不明の病気にかかり、64歳でこの世を去る。緑川さんも体の自由がきかなくなり、72歳で彼岸へ渡った。

 いわき市常磐湯本町三函に浄土宗の惣善寺(森大岳住職)がある。寺の近くで生まれ育った若松さんが眠っている。住職が若いころ師事した松田さんの墓もある。そして今度、同じように住職が師事した緑川さんの墓が、緑川さんの友人たちの協力を得て建てられた。

 墓にはすべて国産の石材が使われた。墓石本体は県内の黒みかげの「中山石」、それ以外は中通りの桜みかげと笠間の「稲田石」だという。

磨き上げられた墓の表面には篆書(てんしょ)の「翔陶」の二文字=写真上2。松田・緑川さんらと同じ草野美術ホール・珈琲門仲間の書家田辺碩声さんが、住職を介して揮毫(きごう)した。

「翔陶」は緑川さんの戒名の最初の3文字「翔陶院』から採った。緑川さんの代表作は「紙ヒコーキ」。長女・志保さんによれば、母親が紙飛行機をつくっていたのを見て、緑川さんが発想した。住職もまた、はばたく鳥のイメージではなく、滑空する紙飛行機の延長で戒名を考えた。

 花曇りの3月28日午後、本堂で1年早い緑川さんの十三回忌と次女の1年遅れの十七回忌法要が営まれた、それから墓地に移動して開眼式が行われ、仮安置されていた2人の遺骨を納めた。

 開眼式・納骨までの経緯を記しておく。平成29(2017)年秋、「まちなかアートフェスティバル玄玄天」のトークイベント、「いわきの現代美術の系譜~緑川宏樹編~」が開かれた。前年秋には、同フェスティバルで市民ギャラリーの活動を牽引した画家松田松雄の人と作品を振り返った。

その過程で緑川さんの作品の前衛性が見直され、友人たちが結集して、同30(2018)年8月下旬、若松さんゆかりのアートスペースエリコーナと、今は閉廊したギャラリー界隈(珈琲門の後身)の2会場で「緑川宏樹回顧展/風は結晶する」が開かれた。墓の建設費用にはこのときの売上金が充てられた。

 私が松田・緑川さんと出会ったのは20代半ばだ。なかでも緑川さんは、「陶芸家は茶わんをつくる職人」という先入観を吹き飛ばしてくれた。日用雑器と無縁の「紙ヒコーキ」は衝撃だった。以来、陶芸と陶芸家の概念が解きほぐされ、アート自体も「こうでなければならない」というものはない、と自分に言い聞かせられるようになった。

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