2021年3月7日日曜日

いわきで最初の「磐前新聞」

                                 
   医療創生大が「いわき明星大」といっていたころ、現代社会学科の学生を相手に、いわきの活字メディアの歴史を話したことがある。

いわきで最初に発行された新聞は、官製の「磐前(いわさき)新聞」(明治6年10月創刊)。これはしかし、現物を見ていないので、年表の一コマとして紹介するだけにとどめた。

その後、明治40(1907)年5月になって、いわき最初の民間新聞「いはき」が発行される。こちらは市立図書館のホームページ内にある「郷土資料のページ」で電子版を閲覧できる。その概略は次の通り。

「いはき」は①創刊号から翌41年4月11日付の23号まで閲覧可能。ただし、4・6号は欠落②第5号までは月1回25日(創刊号20ページ、第2号12ページ、第3号16ページ、第5号8ページ)発行③第7号(10月25日付)から月3回(5・15・25日)、各4ページに④第14号は明治41年1月1日付の新年号として16ページに拡大。3月は8・18・28日発行に⑤終刊の時期は不明――。

「磐前新聞」は、新聞研究者にとっては高嶺のまぼろしの花、ヒマラヤの青いケシのような存在だ。現物が手に入りにくいうえに、「郷土資料のページ」でも紹介していない。『いわき市史』の第6巻(文化)と第3巻(近代)がわずかに触れているだけだ。

先日、たまたまこの「磐前新聞」第1・2・3号を見ることができた=写真上1。今、手元に置いて中身を調べている。

まずは体裁。大きさは縦220ミリ×横160ミリほどの、和紙二つ折りの冊子タイプだ。現代の一般的な単行本よりは一回り大きい(『いわき市史』とほぼ同サイズ)。第1号(明治6年10月)は14ページ、第2号(同7年3月)は16ページ、第3号(同年4月)は14ページ+二つ折りの挿し絵1枚。第3号にだけ表紙の欄外に「定価1銭8厘」とある。

『いわき市史 第3巻 近代』によると、磐前県は明治6年、布告類の迅速な配布・周知を徹底するため活版印刷機を導入し、5月から活版印刷の県布告を発行した。さらに、同年10月には「磐前新聞」第1号を県庁内の新聞紙局で印刷・発行した。

 ということは、和紙・片面の木版印刷の伝統を受け継ぎながらも、新時代にふさわしい活版印刷機を使って印刷・発行をしたわけだ。

 中身は? もうそういう機会はないが、学生に話すとしたらなにから紹介するか。“官製新聞”であっても、行政ネタよりは社会ネタが多い。「髪の毛の真っ白な赤ん坊が生まれた」「三本足のひよこが孵った」=写真上2=というあたりから?

第1号には同6年9月下旬、「大風強雨」(台風だろう)に見舞われ、低地では床上浸水、海辺では大潮が家を倒し、船を壊し、稲田が塩水につかった、という記事が載る。さらに、下大越村で「兇賊」を捕縛した、三春町村の大火事被災者を助けるため、同村の二十数人が金を出し合った、といった事件・トピックス(美談など)も報じている。第2・3号も似たような記事が並ぶ。

同じ事件モノでも、抜刀して押し入った強盗に「斬刑」、という記事にはちょっと震えた。窃盗したが内済には「杖60」というのもあった。ネットで検索したら、明治の初期には江戸時代の刑罰をそのまま適用していたらしい。いわゆる「笞・杖・徒・流・死(ちじょうずるし)」の世界。

磐前県庁の隣に裁判所があった。そこでどんな形かはしらないが、被告に刑事罰が下された? そして、刑場で死刑(斬刑)に処せられた? 今まで考えたこともなかった「近代いわき」の一断面が浮かび上がってきた。しばらく「磐前新聞」と格闘するか。

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