2021年4月25日日曜日

野口雨情展へ

        
 いわき市勿来関文学歴史館で、企画展「野口雨情童謡詩人といわき~」が始まった。7月4日まで。初日のきのう(4月24日)朝、見に行った。旧知の館長氏が説明してくれた。

 ちょっと前、企画展に触れながら、ブログにこんなことを書いた。「雨情といわき」の起点はいわき市錦町の滝川家。錦の滝川家に関して、雨情研究家の故里見庫男さん(常磐)は自著『地域の時代へ』所収「よいよい横町――野口雨情」のなかで、雨情の「祖母の実家」と記し、長久保片雲著『野口雨情の生涯』には「雨情の伯母の嫁ぎ先」とある。どっちなのか、私の頭のなかでは混乱している――。

結論からいうと、滝川家は「雨情の伯母の嫁ぎ先」だった。では、どこから「祖母の実家」説が出てきたのか。もしかしたら、「祖母の実家」が錦と同じ泉藩内にあって、里見さんはそれと混同したのではないか。そんな推測が新たに生まれた。

その根拠が、屋号で呼ばれる泉の旧家(吉田家)の知人からフェイスブックに寄せられたコメントだ。幕末、吉田家から野口家へ嫁いだ女性がいる。それがどうやら雨情の「祖母」らしい。(その後の知人の調査で「祖母」ではなく「曾祖母」と判明)

泉にはさらに雨情とつながる旧家(上遠野家)がある。やはり知人の家で、雨情の長男雅夫に嫁いだ女性がいる。企画展では初孫誕生を祝って書いた雨情直筆の書「こもりうた」や、同じ内容の童謡原稿「野のうた(子守唄)」などが紹介されている。

 以下は、「雨情といわき」展のチラシを見て、先のブログに書いたことだ。雨情は離婚後の大正6(1917)年、石城郡錦村の従兄・滝川淑人の紹介で湯本村(現いわき市常磐湯本町)の入山採炭事務所に勤める。その後、幼い子ども2人と湯本で暮らし、水戸での再婚生活を経て上京したあと、童謡詩人として大成する。

 滝川家については、いわき地域学會の先輩に聞いてわかった。淑人は旧泉藩医・滝川済(わたる)の三男。済は戊辰戦争時、江戸を脱出した輪王寺宮が平潟に上陸し、泉、平を経て中通りへ向かう際、「拝診役」として随行した。廃藩後は大倉村(現いわき市錦町)で開業した。

野口家と滝川家の関係については、図録=写真=では年譜にあるだけ。勿来文歴で補足的に調べてくれたようだ。おかげで上記のようなことがわかって、頭のなかがかなりすっきりした。

 雨情は最初、滝川家から湯本に通勤した。ならば――。帰りは雨情の汽車通勤(植田駅~湯本駅)と職場(入山採炭事務所=たぶん第四坑)、住み暮らした湯本の芸者置屋などを頭において、旧国道6号を北上した。旧国道は常磐線に沿うように南北にのびる。ざっと100年前、雨情もまたこの丘陵の緑を眺めながら湯本へ通い、やがては温泉街の一角に住みついたのだと思うと、なにか親近感がわいてきた。

と同時に、こんなことも思った。久しぶりにいわきの南部・鮫川流域に足を運んだ。私が住み暮らす北部の夏井川流域と違って、中間の藤原川流域(小名浜・泉)を過ぎると、いつも「みちのく」ではない「関東」の空の明るさを感じる。なぜそうなのかは、自分でもわからない。平は山並みが屏風のように迫っている。泉、植田に入るとそれがぐっと遠ざかる。

 いずれまた(今度はカミサン同伴で)、同展を見に行くつもりだ。行くたびに「雨情といわき」の関係が明確になるはずだから。

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