いわきの平地では、満開のシダレザクラが、ソメイヨシノが散り始めた。川辺のサクラだと、流れを白く染めて「花筏(はないかだ)」になる。その写真がないので、11年前に撮った夏井川渓谷の道路の「花絨毯(はなじゅうたん)」をアップする=写真。
3月中旬のNHK「あさイチ」で高知県を特集した。確か仁淀川の魅力のひとつ、サクラの「花筏」を紹介したとき――。現地の女性アナウンサーが「川面(かわも)」を「かわめん」と誤読した。スタッフから指摘されたのだろう、言い間違いを間もなく番組内で訂正した。以来、「かわめん」が頭から離れない。
その何日か前、母親と一緒に中学女子と友達が遊びに来た。なにかのひょうしに言い間違いの話になった。「病床(びょうしょう)」を「びょうとこ」と読んだのだという。
なるほど、「苗床(なえとこ)」がある。「床屋(とこや)」がある。これらは訓読みの熟語だ。日本語はしかし、やっかいなことに「病床」や「臨床(りんしょう)」といった音読みの熟語もある。熟語は音読みどうし・訓読みどうしが基本だが、音に訓が続く「重箱読み」(たとえば台所=ダイ・どころ)、訓に音が続く「湯桶(ゆとう)読み」(たとえば赤点=あか・テン)がある。
中学女子は小学生のとき、何年かを中国で暮らしたので、漢字の日本語読みの複雑さには慣れていないのかもしれない。私のアドバイスはただひとつ、「本を読むこと!」(すると、「本は好きじゃない」といった声が聞こえたような……)。
原稿用紙に鉛筆で文章を書く「記者」から、パソコンのキーボードをたたいて文章を打ち込む「打者」に変わって四半世紀になる。パソコン=外部の脳が勝手に漢字変換をしてくれるから、「薔薇(ばら)」という字は書けなくなった。どんどん自分の脳から漢字がこぼれ落ちていく。
そのうえ、言葉に対する感度が鈍ってきた。「びょうとこ」と似たような誤読が、古希を過ぎたころから起きるようになった。
それを少しでも抑えるには、手書きを続けて自分の脳を刺激することだ。ふだんからパソコンのわきにA4判のメモ用紙(新聞に折り込まれる「お悔やみ情報」の裏面を利用)を置き、朝起きて夜寝るまで気づいたことをメモする。そうすることで、きょうなにが起きたかを振り返ることができる。あとで考える材料にもなる、特にブログの。
しかし、それでも老化は防げない。「川面」は「川」と「面」の2文字を熟語としてとらえるから、「かわも」と読む意識がはたらく。それが加齢とともにゆるくなる。「川」は「川」、「面」は「面」と単独で読んでしまう。字の通りに「かわ・めん」、あるいは「病床」を「びょう・とこ」と言ってしまう日がくるかもしれない。
身の回り全体を見渡して何をするか決める、のではなく、目の前のことにつられて動いてしまう。よくよく注意せねば――。そんなことを「かわめん」と「びょうとこ」以来、考えるようになった。若いとき以上に手書きを続け、本を読むぞ、という覚悟だけは持つとするか。
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