夕刊(いわき民報)に葬祭場の葬儀情報が載る。先日(5月17日)、晩酌を始めると、「国府田さんが亡くなった」。カミサンの声に驚いて、夕刊をまた手に取った。国府田英二さん(小川)の告別式の場所と日時が載っていた。享年97。
国府田さんの“宣言”で年賀状のやりとりをやめてから何年になるだろう。時折、夕刊の「昔のいわき 今のいわき」のコーナーに、小川町の写真と文章を寄せていた。年を重ねても、紙面を通じて健在・健筆を確認することができた。
国府田さんとは、現役のときは市職員と記者として、退職後は同じ「地域学」に関心のある先輩・後輩としてお付き合いいただいた。拙ブログでも何回か国府田さんの文章を引用・紹介している。
国府田さんが夕刊に連載したものが本になったこともある。『国府田敬三郎とアメリカの米づくり』(昭和63=1988年)だ。国府田敬三郎(1882~1964年)は国府田さんの叔父で、明治41(1908)年アメリカへ渡り、のちに「ライスキング」と称された。カリフォルニア州に大規模農場を開拓した。同農場では日本型品種の系統を引き継ぐ中粒種「國寶ローズ」を栽培している。
国府田さんは6年前の平成27(2015)年、戦後70年の節目を記念して、8月15日付で冊子『昭和の子ども』(非売)を出した。自分の誕生から始まって、幼少時・小学校・旧制中学校・助教・海軍・敗戦・復員・結婚までをつづっている。よく調べてあり、資料的価値も高い。先の本もそうだが、91歳で書かれたこの冊子も、国府田さんから恵贈にあずかった。
もう一人、歴史研究家の呑川泰司さんが亡くなった。享年95。直接会って話す機会はなかったが、同じコミュニティの大先輩なので、歩いている姿を見かけると、「元気そうでなにより」と安心したものだ。
呑川さんは、作家山代巴(1912~2004年)の夫で労働運動家の山代吉宗(1901~45年)の研究者だった。いわき地域学會図書14として、平成5(1993)年、『光と風の流れ
山代吉宗の道』を出版した。いわきの炭鉱の歴史をベースに、そこで生きた労働者の実態を、山代吉宗の生涯を通じて解明している。
訃報に接して、手元にある国府田、吞川さんの本=写真=を読み返した。いろいろ刺激を受けた。
特に呑川さんの本からは、山代吉宗が好間川の「大滝発電所問題」やセメント工場の煙害問題で意見を述べたり、告発したりしていることを知った。巴との結婚には、山代の後輩で盟友でもある大井川基司がからんでいたようだ。
大井川は磐崎村藤原(現いわき市常磐藤原町)に生まれた。磐城中学校から京都の第三高等学校に進み、「二月事件」で検挙・放校された。大井川についても知りたくなった。
それ以上に興味を持ったのが、当時の炭鉱の様子を伝える文献だ。吞川さんが第2章の「学士飯場」冒頭で紹介している。三上徳三郎『炭坑夫の生活』(大正9=1920年)で、100年前のいわき地方の炭鉱労働者の仕事と暮らしをルポしている。
国立国会図書館デジタルコレクションで読めるが、現物をなんとか手に入れたいものだ(もちろん値段と相談して)。吉野せいの『洟をたらした神』に収められている「ダムのかげ」の注釈づくりにきっと役立つ――そんな直感がはたらいたので。
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