先日、『父のこけし』と『技の手紙』の著者佐藤光良さん(1941~96年)を紹介した。彼にはもう1冊、本があった。死後、奥さんの手でまとめられた遺作短編集『佐藤光良の小説』(壺中庵書房、1997年)=写真。
佐藤さんは『技の手紙』を出して間もなく発病し、1996年5月6日に亡くなる。享年55。志半ばでの早い死だった。『佐藤光良の小説』所収の年譜で、青春前期の揺らぎの大きさを知った。
遺作短編集には「怜子さんのこと」「雨間(あまあい)」「皀角坂(さいかちざか)」「薪」「花束」「鈴の鳴る靴」「一九六一年」の7編のほか、病院や奥さんへの感謝をこめた「死の淵からのメッセージ」が収められている。
「怜子さんのこと」は福島県T市、「薪」は福島県の海寄りにある郷里の町が舞台だ。進学問題で揺れる中学生が主人公の「鈴の鳴る靴」も、著者が育ったT市をほうふつとさせる(つまりは、現在のいわき市平)。
佐藤さんは東京・青山の「解放運動無名戦士墓」に合葬された。私のように「無思想の思想」を標榜する人間とは違って、思想・行動が明確な作家だった。
こけし工人の父親が戦後、家族から離れてみちのくを放浪する。父親を追う旅に区切りをつけ、母子が郷里の平市に定住したのは1950年。佐藤さん9歳のときだった。
そして、1956年、磐城高校に入学するが、夏休みに入ると、都立高校編入試験に失敗して私立高校に入学、その2年後には郷里の平二高(定時制)に編入する。
高校入学前の年譜に「中学時代、真尾悦子氏にめぐり合い、文章修業はじまる。掌編小説『鉄拳(てっけん)』などを書く」とある。驚いた。なんと早熟な中学生だったか。
真尾悦子さん(1919~2013年)はいわきとの縁が深い作家だ。夫で詩人の倍弘(ますひろ)さん、そして2歳に満たない娘さんとともに、1949年、縁もゆかりもない平へやって来る。1962年には帰京するが、それまでの13年間、夫妻が平で実践した文化活動は、大正時代の山村暮鳥のそれに匹敵するくらいの質量をもっていた、と私は思っている。
真尾さんは平時代の1959年、最初の本(『たった二人の工場から』)を未来社から刊行する。その後、『土と女』『地底の青春』『まぼろしの花』『いくさ世(ゆう)を生きて』『海恋い』などの記録文学を世に送り続けた。
倍弘さんは一時、いわき民報社に記者として勤めていたことがある。療養生活を経て、夫妻は「月刊いわき」を出す。
いわき市立草野心平記念文学館で2004年夏、「真尾倍弘・悦子展――立った二人の工場から」が開かれた。今と違ってしっかりした図録が編まれた。「月刊いわき」通巻第10号(1958年10月1日発行)に佐藤さんの名前があった。「佐藤光良(平市・高校生・17才)『鉄拳』」
佐藤さんの年譜と真尾夫妻の図録を重ねると、中学生から高校生にかけての、彼の心のありようが見えてくる。
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