2021年8月3日火曜日

「中原淳一」世代

                     
 前はマイカーでよく遊びに来た「お姉さん」が、車を手放した。たまに電話がかかってくる。遊びに来るように、という伝言もあった。先日、カミサンとの電話で「古い雑誌がある」「取りに行きます」となって、日曜日(8月1日)にアッシー君を務めた。

 昼食をごちそうするというので、朝は夏井川渓谷の隠居で土いじりをし、昼前、お姉さんの家に着くように街へ戻った。

 おみやげはもぎたての昔野菜「小白井きゅうり」と普通のキュウリ、それに苗床に残っている三春ネギを少々。カミサンは隠居の庭に咲き出したミソハギ=写真=と、ドライフラワーになりかけたアジサイ、そして今は毎年勝手に芽を出すアップルミントを花束にした。

 お姉さんは80代、カミサンと私は70代。私は全く知らないが、中原淳一(1913~83年)が戦後創刊した雑誌でいえば、「ひまわり」「それいゆ」に夢中になった乙女の一人がお姉さん。カミサンはその次の世代で、やはり中原が創刊した「ジュニアそれいゆ」を読みふけった。

 中原は「日本のファッション、イラストレーション、ヘアメイク、ドールアート、インテリアなどの分野で時代をリード」したマルチな人間だ(中原淳一ホームページ)。

折から、いわき市立草野心平記念文学館で「中原淳一展――美しく装うことの大切さ」が開かれている(9月12日まで)。開幕2日目の日曜日(7月18日)にアッシー君を務め、朝9時の開館と同時に企画展を見た。

お姉さんは、企画展はまだ見ていない。カミサンがチラシをプレゼントし、展示内容を説明した。年齢的に少し遅れて生まれた者としては、元乙女たちの話にはまったく入り込めない。お姉さんは「○×さんに連れて行ってもらわなくちゃ」と大乗り気だった。

私ら夫婦がお姉さんの自宅を訪ねるのは11年ぶりだ。冬も糠漬けをつくり続けているという話を聴いて、私もその冬、初めて糠床をかき回し続けた。冬が終わり、春が近づいてきたある日、突然、大地が揺れ、ハマに大津波が押し寄せた。隣の郡にある原発が事故を起こした。

一時、原発避難をし、戻って糠床をのぞいたら、うっすらとアオカビが生えていた。まだ寒気が残るとはいえ、糠床は10日以上も酸欠状態だったので、表面が腐敗したのだった。

緑色のアオカビの層はまだ1ミリ程度で、内部の糠味噌は茶色いまま。胞子が飛ばないように、慎重にお玉で糠味噌ごとアオカビをかき取り、どこにもアオカビのかけらが見当たらないのを確かめて、甕の内側をきれいにしたあと、糠床をかき回した。ぎりぎりで糠床はふんばり、生き延びた。

お姉さんのご主人は糠漬けが大好きだった。それでずっと夏も冬も切らさないようにしてきた。ところが発病~死を迎えるなかで、何十年も愛用してきた糠床をだめにしてしまった。それほど夫との別れはつらく厳しいものだったという。食べる人がいてこその糠床でもあったわけだ。

そのあとの言葉が世の中を、人間をシビアに見るお姉さんらしかった。「奥さんが先に逝ってしまったダンナさんはかわいそう。私は夫を送ったからこうして暮らしていられる」。あなたもそうするのよ――というので、ええまあ、とうなずくしかなかった。ときどきその方がいい、と考えないわけでもないのだが、こればかりは何とも……。

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