2021年8月8日日曜日

『植物忌』を読む

                                  
 若い人にファンの多い作家星野智幸だが、本は読んだことがなかった。『植物忌』=写真=という、変わったタイトルの本が新聞書評欄に載った。図書館のホームページでチェックしたら、「貸出中」になっていた。「貸出中」が消えるのを待って、借りて読んだ。

簡単にいえば、人間が植物になったり、刺青の代わりに植物を生やしたりする変身の物語だ。なかでも私の気持ちにしっくりきたのは「ディア・プルーデンス」。「ぼくは青虫。もとは人間だった」という文章で始まる。

触るとうつる「腐れ病」のために世界中が閉じこもっていた。感染すると臓器が冒され、最後は皮膚が溶けて桃の香りのする水密を流して死に至る。それがいやで、「69歳の女」が青虫に変身する。

青虫になると、天敵の鳥の声の「意味」もわかるようになる。生ごみ問題から「カラス語」を知りたいと思っている人間には、カラスが「アーアーとか、カァ―とかしか鳴いてないように聞こえるけど、必死で想像してると、意味がだんだんわかってくるんだよ。そのうち想像しなくても言葉として聞こえるようになる」青虫がうらやましい。

いや、カラスより大きい人間のままで「カラス語」を理解しようとすること自体、不遜なことなのだ。カラスにつつかれる側になれば、命がかかっている。必死になって「カラス語」を覚えようとする。この覚悟の違いが学習成果の違いになってあらわれる、ということなのだろう、などと考えながら読み続ける。

実は、この方面での私の想像力は草野心平の詩から発している、といってもいい。前に書いた文章を今に置き換えて引用する。

――いわき市立草野心平記念文学館名誉館長の粟津則雄さん(文芸評論家)によると、心平のもっとも本質的な特質のひとつは、ひとりひとりの具体的な生への直視にある。それは人間だけでなく、動物・植物・鉱物・風景に及ぶ。

短詩「石」。「雨に濡れて。/独り。/石がいた。/億年を蔵して。/にぶいひかりの。/もやのなかに。」。「一つ」ではない「独り」、「あった」ではない「いた」。石もまた人間と同じ質量を持った存在としてとらえられる。

 心平は「あいまいで抽象的な観念にとらわれることなく、弱々しい感傷に溺れることなく、その視力の限りをつくして直視した。彼とそれらの対象とのかかわりをつらぬいているのは、ある深く生き生きとした共生感とでもいうべきものだ」という。

「魚だって人間なんだ」という心平の詩行がある。その延長でいえば、植物だって、動物だって人間なんだ、となる。植物だって動物だ、という感覚は少しもおかしくない――。たぶん心平の直観と通底するようなところで『植物忌』は書かれている。

「ディア・プルーデンス」に戻る。青虫はやがて、閉じこもっている隣家の子と会話するようになる。その子は部屋で家がはじけ飛ぶような巨大な花になる。花びらの真ん中でその子の銀髪は伸びて広がり、爆(は)ぜ散り、綿毛となって空へ飛びたつ――。なんとも不思議な物語だ。

ついでながら、「ディア・プルーデンス」はビートルズの曲名だという。「あまりの種――あとがき」(これも作品だろう)のなかで、「内容はコロナ前に歌から聞き取った物語だ」とある。インドの地でつくられたこの楽曲も、どこか植物のつぶやきのように聞こえる。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

初めまして。
星野氏の短編小説に「クエルボ」(所収『変愛小説集』講談社、2014)という作品があります。男の主人公が、妻と住むアパート(マンションだったかもしれません)によく来るカラスと懇意になっていくうちに、自らがそのカラスになってしまう(主人公本人は気づいていない)物語です。
私も、上記作品と『俺俺』(新潮社、2010)しかきちんと読んだことがないのですが、星野氏には動物や夜のイメージがあります。また、人間の心の底の部分を描くのを得意としているようにも感じられます。『植物忌』も、それを反映していると思います。
「星野智幸」「カラス」という言葉が目に入ったので、コメントさせていただきました。

タカじい さんのコメント...

ありがとうございます。「クエルボ」、読んでみます。